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1800年前 ミカンが 銅鐸が 734年 隕石が 

 投稿者:憂い  投稿日:2017年 2月17日(金)11時53分50秒
返信・引用
  734年   隕石http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/3547
740 年→734、1425→1419年に修正し、特に734年、天平4年の五畿七道地震について、隕石衝突の可能性を指摘したことがありました。

それで、その五畿七道地震を調べていくと、確かに火の玉が東へ飛んでいったという記載があることに気付きます。

『熊野年代記』
天平甲戌六

熊野五月大地震神ノ倉崩ス嶺ヨリ火ノ玉東海飛、西金堂ヲ興福寺建四月諸国大地震丙子八

神倉成、今神倉成

なお、五畿七道地震の資料と研究詳細は下記を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%BF%E5%86%85%E4%B8%83%E9%81%93%E5%9C%B0%E9%9C%87

この神倉は新宮市の西北にあるそうで、その峰から東の太平洋側へと火の玉が飛んでいった、それと同時に地震が起きて神倉などが壊れたということになるでしょう。

熊野には、熊野速玉大社があり、速く動く玉を神格化したようにも見受けられます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/熊野速玉大社
https://ja.wikipedia.org/wiki/神倉神社

それで、その火の玉つまり隕石のルート推定ですが、出雲と住吉、そして熊野に関連の災害記録があります。

『出雲国計会帳』
天平六年四月
十六日移太政官下符壹道、地震状

それで、それらの地点をラインを結ぶと図1のようになります。
さらにそのライン周辺、特に熊野周辺のクレーターのような地形を結んだのが図2です。
この角度が23.4度の地球傾斜角、つまり隕石の予想侵入角と一致してきますので、いよいよ、この五畿七道地震は隕石衝突による可能性が出て来るように感じます。

]861年[-8]記録に残る世界最古の隕石「直方隕石」が落下。http://www.toda.co.jp/tc/102/html/0005.html
『日本三代実録』に記録されている860年頃から890年頃[平安時代初期]に起きた主な自然災害。西暦に続く[]内は「貞観地震」を基準とした経過年。[*]貞観地震正史『六国史』の最後として編纂された『日本三代実録』に記録されている。

世界最古」とされる隕石(いんせき)「直方隕石」が22、23日、直方市下境の須賀神社( 岩熊正晴宮司)で公開される。
世界最古 直方隕石http://kenbi-denshin.com/fukuoka/nougatainseki-3528
一般的に 須賀神社は、牛頭天王(こずてんのう)・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社です。

直方市の須賀神社には、「飛び石伝説」として次のような言い伝えがあるそうです。
「飛び石伝説」http://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/ken-dayori/201609/html/doyouknow.html
861(貞観3)年4月7日夜、神社上空が突然真昼のような明るさになり、境内で激しい爆発音が起こった。
深くえぐられた穴をのぞくと、黒く焦げた石。その石は桐箱に納められ、代々大切に受け継がれている。

祭祀の始祖は、筑紫の国造「田道の命 」(考元天皇の五世の孫)で、筑紫物部を率いて神々を祀る。
劔神社http://tsurugijinja.on.omisenomikata.jp/

「劔畷」 人が集まる田(耕作地)+叕(つながる)http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/3251
たんぼ道・・・【田路/田道】?

田道間守が 垂仁天皇の命を受けて東晋を訪問した史実をもとにしてできたものではないか。また、物 部氏についても畿内の庄内式土器の分布や銅鐸との関連を述べる。
物部氏の東遷と考古学http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku221.htm

倭の奴国王が金印を授かる(57年). 100年 (今 から1900年前). 200年 (今から1800年前), 7.『本山に銅鐸が埋められる』http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/center/useful/historynews/index.html
1800年前

1800年前、田道間守(たじまもり)が朝鮮から持って来たタチバナを小天の農民たちに植えさせたのが始まりといわれています。熊本のミカンは、古くから産地の名を冠した高田(八代)ミカン・河内ミカン・小天ミカンなどが知られています。
河内ミカン・https://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-snvaio&p=%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93&ei=UTF-8
河内
銅鐸http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html
分布は山陰と畿内(摂津・河内・大和)に集中 しているのが目立ちます。

大和(奈良県)から河内(大阪府)に入るルートに位置する柏原市亀の瀬などのあたりは、隘路となっており、まさにテルモピレー(テルモピュライ。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」によれば、紀元前480年、わずか300のスパルタ兵を中心とするギリシア軍計約5千余が、約210万ものペルシアの大軍を迎え撃ち、3日間にわたって、くい止めたとされる)ともいうべき立地である。一夫関に当たれば万夫も開くなし(李白「蜀道難」)であろう。このあたりに何故、一度も城や砦が築かれなかったのか、不思議といえば不思議である。現在、大阪教育大学があるあたりとか、あるいは玉手山のあたりなどに城か砦を造れば、防御体制としては完璧だと思うのだが。ひょっとすると、亀の瀬の西側に建立されていた河内国分寺(柏原市国分東条町)や合流点近くにあった鳥坂寺(柏原市高井田)などには、そういった機能もあったのかもしれない。あるいは、地形が狭隘すぎて、もともと大軍を進めるには不適当だと考えられていたため、城や砦を造るなどという発想は、最初からなかったのかもしれない。
天に輝く国の 棚機(七夕)か
それか あらぬか
高く光る 日の若宮の
神嘗(かんなめー今年の収穫を奉納する)の日若祭りは。

今日一日 舞え舞え騒げ 騒げ舞え
妹今に来む 背子今に来む

多賀神社http://lunabura.exblog.jp/14003855/

古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。日本最古の書物「 古事記」によると、この両神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、我国の国土、 続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。

遠賀川 流域は物部氏のゆかりの地域である。倉師(くらじ)大神から高倉下を祀る神社とされる 。
劔神社 (直方市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%9B%B4%E6%96%B9%E5%B8%82)
祭祀の始祖は、筑紫の国造「田道の命」(孝元天皇の五世の孫)で、筑紫物部を率いて神々を祀ると云う。田道の命の橘孫「長田彦」が、神官となった。

たみち【田路/田道】とは。意味や解説、類語。田の間の道。あぜ道。畷 (なわて) 。http://dictionary.goo.ne.jp/jn/138953/meaning/m0u/
畷・・・コンパス?
 「叕テツ」 <つながる> と 「綴テイ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/87d1fa49cae4fc9c536626dcdfee3c86
「点綴テンテイ」(点をひとつひとつ結びつける)
畷 テツ・なわて  田部
解字 「田(耕作地)+叕(つながる)」の会意形声。耕作地をつないで走るあぜみち。
意味 (1)なわて(畷)。縄手とも書く。あぜみち。たんぼ道。 (2)まっすぐで細長い道。 (3)地名。「四條畷市シジョウなわてシ」(大阪府東部の市)

「馬」の渡来地は大阪四條畷市http://hyakka.seesaa.net/article/431883223.html
朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

当時、柏原市域を含めた 河内一帯の中小豪族は、物部氏側だったと思われる。http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014111600040/?doc_id=2373
蘇我・物部の戦い(丁未の乱)
 西暦538年に伝来した仏教をめぐり、西暦587年7月、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との間に戦端が開かれた。馬子の軍勢は、河内国渋川郡(現・東大阪市や八尾市などの一帯)の守屋の館を目指し、大和から河内に向かって進撃した。厩戸皇子(うまやどのみこ=後の聖徳太子)や泊瀬部皇子(はつせべのみこ=後の崇峻天皇)らの皇族も馬子と行動をともにしたという。両軍は、餌香川(えががわ)の河原で激突した。両軍の戦死者は数百にのぼったとされる。暑い時期のことでもあり、打ち捨てられた戦死者の状況は凄惨なものであったという。

大和(奈良県)から河内(大阪府)に入るルートに位置する柏原市亀の瀬などのあたりは、隘路となっており、まさにテルモピレー(テルモピュライ。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」によれば、紀元前480年、わずか300のスパルタ兵を中心とするギリシア軍計約5千余が、約210万ものペルシアの大軍を迎え撃ち、3日間にわたって、くい止めたとされる)ともいうべき立地である。一夫関に当たれば万夫も開くなし(李白「蜀道難」)であろう。このあたりに何故、一度も城や砦が築かれなかったのか、不思議といえば不思議である。現在、大阪教育大学があるあたりとか、あるいは玉手山のあたりなどに城か砦を造れば、防御体制としては完璧だと思うのだが。ひょっとすると、亀の瀬の西側に建立されていた河内国分寺(柏原市国分東条町)や合流点近くにあった鳥坂寺(柏原市高井田)などには、そういった機能もあったのかもしれない。あるいは、地形が狭隘すぎて、もともと大軍を進めるには不適当だと考えられていたため、城や砦を造るなどという発想は、最初からなかったのかもしれない。
 
 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2017年 2月16日(木)19時11分8秒
返信・引用
  永承四年内裏歌合によめる

嵐吹くみむろの山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり(後拾遺366) 能因法師

・・734年畿内七道地震は、生駒山地系と金剛山地系の間の断層帯。竜田川大和川の筋か?

・・神武vs長髄彦の戦いのダブルイメージ。孔舎衛坂(くさえのさか)で五瀬命負傷。

「今我は是(これ)日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして日に向いて虜(あた)を征(う)つは、此(これ)天道(あめのみち)に逆(さか)る也。 若(し)かじ、退(しりぞ)き還りて弱きを示し、神祇を禮(いや)び祭りて、背(そびら)に日神(ひのかみ)の威(いきおい)を負い、影の隨(まにま)に壓(おそ)い躡(ふ)まん。 如此(かく)なせば、則(すなわ)ち曾(かつ)て刃に血せずして、虜(あた)必ず自ずと敗(やぶ)れん」

ちはやぶる →血は敗る

ちはやぶる神世もきかずたつた河からくれなゐに水くゝるとは  業平


・・神世は神代紀にはなかったことだ。イワレヒコから人と人の血を流す戦いになる。

「地は破る」なら734年の地震だろう。

・・業平、能因では、869年の陸奥海溝地震のイメージがさらにダブる。
 

加具 火の神

 投稿者:憂い  投稿日:2017年 2月 9日(木)23時51分55秒
返信・引用
  ククル』は『犬』のネパール語です。
「ククル」ってのはネパール語で「犬」 のこと。 1日目はカラスでしたが、2日目は犬が対象に変わりました。 なぜ犬なのか? これにもちゃんと理由があります。 カラスと同様、犬も閻魔大王の使者 ...
光のお祭りと呼ばれている「ティハール」。http://www.keikawakita.com/entry/2016/12/nepal-tihar
1日目:カグ・ティハール(カラスの日)
2日目:ククル・ティハール(犬の日)
3日目:ラクシュミ・プジャ(お金の女神ラクシュミの日)
4日目:ガイ・プジャ(牛の日)
5日目:バイ・ティカ(兄弟の日)

「カグ」ってのはネパール語で「カラス」のこと。

カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎは やをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちの かみ;加具土命)と表記される。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B0%E3%83%84%E3%83%81

熊野大社の境内に、神器の火鑽臼(ひきりうす)と 火鑽杵(ひきりきね)を保管する鑚火殿(さんかでん)という建物がありhttp://ameblo.jp/taishi6764/entry-12069513821.html
燧臼・燧杵は、古代の人々が火を熾す際に使った道具である。神社の祭りや神事では、この道具を神聖な神火を鑚り出す方法として今も使用している。
ブログ?出雲国造の「“火継=霊継”(ヒツギ)の式」

近畿地方の南から北へ一直線上に「火の祭典」
近畿地方の南から北へ一直線上に那智・奈良・鞍馬・若狭と並んで同じような火の祭典がある。
 【鞍馬の火祭り】
 【京都五山送り火 】
 【東大寺の二月堂「修二会(しゅにえ)」】
 【熊野速玉大社の奥の院 神倉神社御燈祭(おとうまつり、御灯祭、お灯祭とも)】
 【那智の扇祭り】
 【熊野本宮大社「八咫(やた)の火祭り」】
 

ヤハー 降る

 投稿者:憂い  投稿日:2017年 2月 9日(木)23時26分44秒
返信・引用
  〔1古今集巻5-294〕
ちはやぶる神世もきかず竜田河唐紅に水くくるとはーなりひらの朝臣
「チハヤブル」
《彼(ダビデ)は脅かすべく、神(ラグエル)をつけ狙った。》
「カミヨモキカズ」
《畏れられる者としての時、彼(ラグエル)は、彼ら(ユダヤ教徒)の神(ダビデ)に立ち向かった。》
「タツタガハ」
《彼(ミカエル)の代理である彼(ダビデ)は、癒す者(ラグエル)に一線を隔したのであった。》
「ミズククルトハ」
《(また)企む者としての降り懸からせる者(ダビデ)は、(責任を彼に)なすり付けた。》(7.20.)

くくる 「クルクー」 「使徒」 鸞 神に伝える鳥http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2843
チハヤブルhttp://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage19.htm

踏鞴、多々羅、蹈鞴、 多田羅、立田羅など、「タタラ」地名は、窯のあった場所の字名です。http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6227687&id=77574610

タタラの語源はタタル( タタール)=タタラの語源は、タタール族のダッタン語で熱を意味する「 ...http://ameblo.jp/aries-misa/entry-11472264973.html
たたら製鉄と タタール人とユダヤも繋がってしまうのです。
 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2017年 2月 3日(金)12時28分50秒
返信・引用
  玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野

・・この「たまきはる宇智」だが、内、菟道、宇治、宇智とすべて通ず。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57099875.html

卓見か?


ちはやぶる神世もきかずたつた河からくれなゐに水くゝるとは  業平

・・ちはやぶるは神、宇治にかかる枕詞という。

竜田川は昔モノノベと神武が戦った。神武軍はおおいに血を流したはず。

 ちはやぶる 血は破る

・・

 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2017年 1月16日(月)00時19分56秒
返信・引用
  雙鵝 洛陽に飛び
五馬 江徼を渡る
何ぞ意はん上東門
胡雛更に長嘯せんとは。
中原 豺虎を走らせ
烈火 宗廟を焚く。
太白 晝 天を經
頽陽 餘照を掩ふ。


雙鵝飛洛陽
五馬渡江徼
何意上東門
胡雛更長嘯
中原走豺虎
烈火焚宗廟
太白晝經天
頽陽掩餘照


經亂後將避地剡中留贈崔宣城


・・安禄山の乱が勃発し、避難に下る時の詩。

芭蕉が李白にとても敵わないといったのは、よくわかる。

・・



 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2017年 1月 6日(金)14時22分14秒
返信・引用 編集済
  漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽和我勢故 花縵世奈

漢人も筏浮かべて遊ぶといふ今日ぞ我が背子花かづらせな

・・

  三月三日天氣新  三月三日 天氣新たなり
  長安水邊多麗人  長安の水邊 麗人多し
  態濃意遠淑且真  態濃(こま)やかに意遠くして 淑且つ真
  肌理細膩骨肉均  肌理細膩にして骨肉均(ひと)し


・・

杜甫の「麗人行」という詩の最初の四連。三月三日は上巳という。
川遊びに出た麗人はみな優艶だが、楊国忠の付き人とわかると、詩の感興も食傷気味になる。
後、安禄山の乱で楊国忠も殺され、楊貴妃も縊死という。起点と結点が見えないのが花ですか。
 

あそび

 投稿者:山田  投稿日:2016年12月29日(木)01時53分19秒
返信・引用
  ・・

之裒世能 儺鳴理鳴彌黎麼 阿蘇寐倶屢 思寐我簸多泥儞 都摩陀氐理彌喩一本、以之裒世易彌儺斗。

鮪答歌曰、

飫瀰能古能 耶陛耶哿羅哿枳 瑜屢世登耶瀰古


・・阿蘇寐 あそびト読ム

それきみ        みつみ;;; お
 ほえこれのうつはわ
 ほのあかりのみことこれのあめのいわとに
 こもりますときにあそひのそなえ
 にまつるひとつのおおみかがみわ
 すめおおみかみのみたまとしてあめ
 のいわやとにのこしもちいたししなる
 をあめのいわやどのこれのきしにい
 わまてよひらにたてて
 かくしおくなり

麻根身木身蚊身戸身蚊
身背身蚊戸雫穂エ子()野
ウ切イ輪
穂野ア蚊針野()()子()野ア目イ輪戸
荷子漏針紫居戸木()ア麻火野麻
魚エ荷戸切見()戸切()オオ身蚊蚊身輪
居目紵紵身蚊身野身蚊戸緑手ア目野イ
輪戸荷()子緑漏乳イ蚊戸緑緑魚見紵ア
麻()野イ輪繰()野子()野木緑荷イ輪雫
手木火腹荷蚊手
蚊繰緑オ
繰魚針

・・ア麻火 阿蘇火

(岩戸蓋石から)

・・

本歌「ゆふつくる しなのはらにや あさたづね あさたづね あさだづねや」
  (木綿作る 信濃の原にや 朝尋ね 朝尋ね 朝尋ねや)
末歌「あさたづね ましもかみぞや あそべ あそべ あそべ あそべ あそべ あそべや」
  (朝尋ね 汝も神ぞや 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べや)
本「朝尋ね きみもかみぞ」
末「ましもかみぞ」
本「君も神ぞ」
末「汝も神ぞ」
本「君も神ぞ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ」
末「遊べ 遊べ 汝も神ぞ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ 遊べ」



・・あそびハ夢幻



 

豊後大野

 投稿者:山田  投稿日:2016年12月27日(火)20時06分48秒
返信・引用
  >・・ゴラン高原と同緯度なのは豊後大野の海石榴市-血田ですな。ここの海石榴市は歌垣ならぬツバキの椎で土蜘蛛を誅殺しまくる狂乱の地。大野は荒れ野。


ゴラン高原 北緯32度58分54秒 東経35度44分58秒

 豊後大野  北緯32度58分41.1秒 東経131度35分6.2秒 (市役所)

ウエツフミ「宗像本」とは、豊後国 大野郡土師村(現在の大分県豊後大野市大野地区)の宗像家に伝えられていた古文書


なぜ豊後大野市が選ばれたのか?


(1)ここがウガヤフキアエズ王朝の中心地だったので、周辺の町や村からも集まりやすい地理的条件にあった。
つまり経済の中心地である「大分(おおきた)の宮=大分市」や、神事祭儀の中心地である「二上(ふたのぼり)の大宮=竹田市」からも集まりやすい中間地点にあったということです。
そして、その交通手段として使われたのが、大野川水系の水上交通でした。

(2)八百万の神々が上空から観覧するため、広い野原のような開けた地形が必要だった。

下記のイラストを見ていただけると分かりますが、豊後大野市は、南を祖母・傾山系に、北を神角寺~霊山山系に、西を阿蘇の裾野に囲まれた巨大な盆地のような地形になっています。
その中心にあった大きい野原なので「大野之原」と呼ばれたのです。
つまり、豊後大野市は“巨大な天然スタジアム”のような地形になっているということです。

(3)神々に捧げるための農作物が豊富に採れた
ここは、いわば“大野川デルタ地帯”であり、日本でも有数の穀倉地帯です。
つまり文明の発祥に欠かせない農作物が豊富に採れたということ。
さらに、臼杵や佐伯の海からは、新鮮な海産物が河川交通を使って船で届けられました。
つまり、山の幸と海の幸が両方とも揃う最高の土地だったのです。


・・お神楽こそ、この地域の伝統芸能なのであり、それはウガヤフキアエズ王朝の流れをくむ、格式高い神事だったのです。

  https://ugaya.jimdo.com/2016/12/13/お神楽のルーツは豊後大野市にあり/
 

木母・・・鬼母・・・木氏・・・紀氏

 投稿者:憂い  投稿日:2016年12月22日(木)14時30分28秒
返信・引用
  ダキニとは鬼子母神のことで、由来はヒンドゥーの殺戮の神カーリー(ダーキニー) です。 ... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1130967301?__ysp=6ay85a2Q5q%2BN56WeICDojbzmnrPlsLzlpKk%3D

春日部八幡神社の主祭神は、誉田別尊、息長足姫命、武内宿禰命、豊受姫命。なぜ、通常八幡神社に祀られることのない武内宿禰命が祀られているのかといえば、春日部氏は紀氏の流れを汲み、武内宿禰はその上祖だからだということらしい。大いに疑わしいが、事実であれば、紀氏は紀伊国造であり、渡来系の金属と由縁の深い氏族であることは、『日本書紀』に「即ち石凝姥(いしこりどめ)を以て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採りて、日矛(ひほこ)を作らしむ。又、真名鹿(まなか)の皮を全剥(うつはぎには)ぎて、天羽鞴(あまのはぶき)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐(いま)す日前神(ひのくまのかみ)なり」とあることからも推察できる。
―春日部八幡神社― http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/22550720.html?__ysp=6ay85a2Q5q%2BN56WeICDntIDmsI8%3D
八幡神社の総本宮である宇佐八幡宮の創始は、鍛冶翁が出現し、託宣したことが発端となっており、また伏見稲荷大社同様、秦氏が創建した神社でもあり、もともと金属とは関係が深い。武家階級を確立した頼朝が八幡神に深く帰依したのも、それが武器と切っても切りはなせない金属神だったからだろう。したがって、頼朝を支持して結集した武蔵七党のなかの丹党や野与党、私市党などが奉斎した丹生神社や久伊豆神社などというのも当然金属と関係する神社であり、武器の製造、供給には欠かせない鍛冶集団を庇護していたに違いない。

大宮能売神、弁財天社、天神社、猿田彦大神、井戸水神、常陸馬頭観音、松風馬頭観音、母性乳神、秋葉明神、妙正稲荷、虚空蔵菩薩、鬼子母神、権現菩薩、観世音菩薩などがあり、母性乳神とは鬼子母神と関連するかどうかわからないが、鬼子母神は少なからず金属と関係があるようだ。また、鬼子母神は十羅刹女と同一視されることもあり、日蓮宗では、鬼子母神は十羅刹女の母とされるという。これについては「根金神社」についてのブログに詳述する予定なので、ここでは省く。そして、虚空蔵菩薩が祀られた場所近くからは金属を産するケースが多いという。
 さらに社は続き、春日部八幡神社神楽殿の東に、氷川社、御嶽社、板倉大社、大己貴大神、少彦名大神。板倉大社というのは不明だが、あとはすべて金属と関係のある社と神だ。
 八幡神社本殿近くには、松尾大神、香取社、鹿島社、愛宕社とある。松尾大社は秦氏創建の神社。それ以外の香取、鹿島、愛宕の三社は金属精錬と関係する。ちなみに、ここに鹿島神社が祀られているのは興味深い。『新編武蔵風土記稿』によれば、浜川戸にはかつて、金池と鹿嶋池があったというから、そこに祀られていた社を合祀したものかもしれない。春日部市在住のropunoru7女史によると、同市大字梅田にある神明社にも鹿嶋大神の石祠があるという。また、春日部市に近い越谷市大字平方の古利根川沿いにも鹿島神社があり、多氏との関係が考えられる。
 『埼玉の神社』によれば、春日部八幡神社は、明治四十五年、字内谷の稲荷、字大池の水神社、字金山の無格社稲荷社を合祀したとあるだけで、それ以外の社が、始からこの砂丘上にあったものか、あるいは合祀されたものなのか、はっきりしたことはわからないが、合祀されたものとしても、おそらく、この近くにあった社のはずであるから、これだけの数の神仏が鎮座するということは、いかにこの浜川戸という地、そして、現在八幡公園となっているこの河畔砂丘一帯が神聖な地であったかということを如実に示しているといえるだろう。そして、それは他でもない、この砂丘から多量の砂鉄が採取できたからだったのではなかろうか。

鬼子母神も鉄と関係しているらしいんです。http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/24019024.html?__ysp=6YmE44Go6Zai5L%2BCIOmsvOWtkOavjeelng%3D%3D
「鬼子母神はめずらしいのかい。」とYさんが尋ねる。「そうですね、この辺じゃほかにないでしょう。ただ、似た神様で羅刹女というのを祀っているのはあります。」。「ラセツ・・・そりゃ、やはり仏教かい。」。「そうですね、ほとんど鬼子母神と同じ経歴の持ち主です。根金村ご存知ですよね。あそこの根金神社では、昔、この羅刹女を祀っていまして、貝塚とかあの辺りでも羅刹を祀っていた神社がいくつかありました。十羅刹女といいます。根金神社の御神体は鉄なんです。金糞というんですが、鉄くずみたいなもんです。鬼子母神も鉄と関係しているらしいんです。」。
 「へぇぇ、鉄と、なぜまた。」。「それがわからないから、調べてるんですよ。」。「あっ、そうか。ふぅぅん、でも、鉄は聞いたことねぇな。」。
 確かに、Yさんのいうとおり、蓮田側では、今のところ、鉄は確認されていないのかもしれない。しかし、綾瀬川を越えた対岸の伊奈町、桶川市はどうかというと、製鉄遺跡や炭焼き窯跡がいくつか発掘されており、地名や寺社を考慮に入れれば、備前堤を中心とした一帯は並々ならぬ製鉄地帯であった可能性が高いと思われる。
 しかも、わたしの蓮田市物部居住説を裏づけるかのように、Yさんの名は物部氏族の姓なのである。

紀の国の氏族 物部
物部麻呂、寺の薬分酒2斗を借りたまま死んだので、牛とされ駆使されたとの伝えがある。
 名草郡三上村 和歌山市薬勝寺 薬王寺
紀の国の大氏族 紀氏 紀氏の二系統 6世紀後半から7世紀前半に紀氏集団が分断 紀 の国の紀氏 紀直 神魂命の五世孫の天道根命もしくは神魂命の子の御食持命を祖と する神別氏族 日前国縣神宮を祭祀している。
紀氏の二系統http://kamnavi.jp/kinokuni/historykisi.htm

牛・・・禹氏・・・姫氏
椿の古根が牛鬼(ぎゅうき)に化けるという伝承もあり、紀 氏は蘇我氏と係わりの深い氏族であることが分ります


高句麗、秦氏と変化説もあるバール信仰の名残http://ameblo.jp/hex-6/entry-10730045504.html
アンの子、エン・リルは、牛の角を持つ世界を統べる神であり、太陽神にして大気神であった
大気神とは風の神であり、力の象徴にして、軍神である
エンリルが元となってミトラ多神教のミトラ神(牛の角を持つ)が生まれ、世界中に伝播する
ミトラ神は救世主の性格も持ち、キリストやマイトレーヤ(⇒弥勒菩薩)概念の元となる
ミトラ神はミスラとしてペルシア帝国の守り神となる
ミトラ神の光と英知は神格化されアフラ=マズダ(ミトラはアフラー神群のため)となりゾロアスター教の主神
アフラ(ミトラ・アフラマズダ)は、アスラとしてインドの悪神にされる。これがアスラ=アシュラ=阿修羅
ミトラ神の兄弟インドラ神は、インド神話に取り込まれ、帝釈天となる。
阿修羅軍は帝釈天軍に負けても負けても戦いを挑み、天界を騒がすが、帝釈天より天界から落とされる
仏陀により教化されて阿修羅は悟り、仏教の守護神となる
ミトラ神はヘレニズムと習合し太陽神アポロン。(アスラマズダは、ゼウス)
ミトラ神の転化したバール神はユダヤで信奉され、ダビデ王が天のバール神に祈った言葉が「アーメン」
牛の頭を持つバール神の象徴である子牛像をユダヤの民は拝んでいたので、ヤーベに対する裏切りとしてモーセが怒り、子牛像を破壊した逸話は有名。像を粉々に粉砕して、罰として拝んでいた人々に飲ませたという
ソロモン王の玉座にも金の子牛像(鋳造の子牛)が置かれた。
この偶像信仰が元で神の怒りに触れ、散らされたのが、失われた十氏族である

ユダヤの菊紋が天皇家と一致し、同祖の傍証とされる場合もあるが、一般に天皇家の菊紋は、エル(アン)とエン・リル(ミトラ神・バール神)由来のバビロンの16弁菊花紋が元とされる。
オリエントに起こった各帝国では、シュメールの文明が絶大な影響力を持っており、ミトラ神(バール神)由来の16弁菊花紋を持つ王家が幾つも存在する

バール神は仏教に取り込まれ、牛頭天王をなり、朝鮮半島にも数多くの痕跡を残す
日本では神仏混交の時代、スサノオミコトと同一とされ、祇園社や牛頭天王社に祀られた
スサノオミコトを祀る神社は多くが16弁菊花紋を神紋としており、エンリル(ミトラ神・「牛 (うし)=禹氏(うーし)=奉仕と犠牲の王様」を紹介していたのです。 )信仰との関連が強く伺われる

バール神
海の民ペリシテ人の信仰でも主神格として 迎え入れられており、彼らの信奉するダゴン(植物神、或いは水神)の息子とされている。
バアル/ベル(神名)https://www49.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/33141.html
バアルの名は聖書にも登場するが、長らくキリスト教社会では旧世界の記憶として忘れ去られていた(ばかりか邪神や悪魔として扱われていた)。

日本人の出自,ノア=天御中主,伊勢神宮,ヤオ族の神話http://bewithgods.com/hope/doc/2-20.html

禹が鉄牛を川辺に置いたという神話は 古代文献には存在しないが、実は李氷が石犀を作って水精を鎮圧した故事の変形で ある。
牛(5) 鎮水神牛http://blog.livedoor.jp/eastasian/archives/1946167.html
 

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