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出雲とは縄文である

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年 7月 9日(日)22時01分45秒
返信・引用
  大江音人(811 - 877)の記録を主とす。大江氏(本姓: 土師)は大枝本主を祖とし、 平城天皇の皇子阿保親王の侍女が大枝本主に嫁し音人を生む。貞観 18 年(876)大江 に改姓。

大江氏http://www2.harimaya.com/sengoku/mouri/html/mo_ohe.html
大江氏は古代氏族土師氏から出た。土師氏は出雲国造と同祖で、天穂日命に出ずると伝え、垂仁天皇のとき、野見宿禰が当麻蹴速を倒して「相撲の元祖」となり、また殉葬者に代えて埴輪を創製し、土師姓を賜ったという。大和国添下郡菅原伏見邑を本拠とした。連姓で天武天皇のとき宿禰姓に改められた。
 天応元年(781)土師宿禰宇庭の次男古人が上奏して、郷里の地名により菅原宿禰姓を賜り、延暦九年(790)朝臣姓に改められた。
 一方、大江氏を出した土師氏は山城国乙訓郡大枝に住し、桓武天皇の縁戚となったため、延暦九年大枝朝臣の姓を賜ったのに起こり、貞観八年大枝音人が奏請して、大枝を大江に改めたのである。代々、文章家を家職とした。ところが、大江氏の場合、平城天皇の皇子阿保親王の子が本主であるとするものもある。しかし、これは後世の仮冒といえものであろう。

出雲地域は渡来人が入り込む前は、寒冷化に伴い東北から南下してきた縄文人が相当 量住んでいました。今も出雲地方にのみ東北弁が残っているのもそのためなのです。 出雲の地は漁労採集を生業とする縄文人にとって安住の地となります ...
出雲とは縄文であるhttp://blog.goo.ne.jp/hitsuku/e/601064fb7511a951a26cc3a573a79634
紀元前5世紀から渡来人が入り込んできます。地形を見ればわかりますが、朝鮮半島からは北九州を除けば最も近く、中海という良港を持つ出雲は必然的に、海を渡る渡来人が早くから辿り付く事になります。前5世紀、越滅亡に伴い朝鮮半島の弁韓と出雲に別れて渡来したのが越人です。越人は既に呉人が先行して渡来して集落を形成していた北九州を避け、出雲を拠点に日本海側に広がり北は新潟まで辿りつきます。それらの地域は現在でも越の国と呼ばれており、この越の国の基盤が後の出雲の国づくりの基盤となるのです。
つまり、北九州は沖積平野によってきできた平地が広く、そこに渡来人がコロニーを作る事は容易でしたが、出雲に入り込んだ越人は、既存の縄文人ネットワークを上手く利用させてもらうためにも、縄文人集落の間にどっぷり入り込まざるを得えなかったのです。

出雲族の大和への移動
高句麗襲来で慌てた大和は、時の国主であり最大の影響力を持っていた出雲の首長を招き、統合力を高めることを考えたことでしょう。もともと大和勢力は北九州や出雲を先に取られていたので仕方なく大和に入り込んだ経緯があります。当然、銅や鉄の資源産地でもあり、交易拠点でもある出雲の支配権を虎視眈々と狙っていたに違いありません。大和は高句麗に対抗して次々と古墳を築造し、弥生人を取り込んでいきますが、その際にも出雲の影響力、神通力は必要な力だったのです。大和に大国主命を祀る大神神社を建立、三輪山を背景に出雲神話を以って大衆の共認統合を図ります。(
後に百済から応神天皇を招きいれ、天孫降臨神話を国の骨格にしていく大和ですが、出雲を否定する事はできず、国譲りという形で神話形態の中に組み込んでいきます。伊勢神宮が出雲大社から信仰を譲り受けたとする体系(支配権の委譲)はこの時に出来上がったのです。
大和は信仰とその成果である古墳により磐石な基盤を作り、高句麗の畿内進出を阻みます。
高句麗勢力は出雲の拠点は維持するものの、中心勢力は東国に移動。やがて高句麗本体の混乱により、その東国も大和勢力に占領されてしまいます。
そして高句麗滅亡を迎える7世紀に出雲族も出雲の地を取り戻すことになるのです。

出雲には大国主命信仰と重ねてスサノオ神話があります。暴れん坊スサノオが追放され、アマテラスが国を治めたという逸話です。しかしこのスサノオ、その実態は諸説があり実在したかどうかもわかっていません。私達はこのシリーズを追いかける中でスサノオとは高句麗の象徴であり、実在していないのではないかと思うようになりました。
暴れん坊の行為としての書かれている、灌漑水路の破壊や馬の皮を剥いで機織部屋に放り込むといった行為は、実はスサノオが弥生(稲作)の民ではなく騎馬遊牧民の象徴だからではないでしょうか。そう考えますと、騎馬遊牧民であり武力に強かった高句麗とも符合しますし、高句麗が出雲を結局譲り渡した結末とも一致するのです。
 
 

霊亀尾を曳く

 投稿者:山田  投稿日:2017年 7月 4日(火)22時23分56秒
返信・引用 編集済
  ・・京都鳴滝にある音戸山。

名称は、大江音人に因む。


大江音人(おおえのおとんど)

811‐877(弘仁2‐元慶1)
平安前期の文人官僚。江相公(ごうしようこう)と呼ばれる。大江本主の子。阿保親王の子とする説もある。大学寮に学び,対策に及第後,少内記,東宮学士などを経て,左少弁となり,以後弁官を歴任する。864年(貞観6)参議。清和天皇に《史記》を進講,877年南淵年名が行った尚歯会に加わる。従三位左衛門督に至る。史書に〈通儒〉と評されるように音人の本領は詩人であるよりむしろ学者であった。貞観格式の撰定の中心となり,《文徳天皇実録》の編纂にも参与した。(世界大百科事典)

・・811-877の生存ですから、音戸山もそのころの創作ですね。山の頂上にさざれ石があるそうです。


嵯峨の小倉山というのもだれが命名したか。平安期の創作命名とみてます。

東南に伸びる山稜は亀山、亀の尾と呼ばれます。「亀の尾」という銘酒があって、高価なものですが、頂いたことあります。

小倉山の東南は京の辰巳ですから、やはり喜撰の「鹿ぞすむ」がヒントとみますが。



・・win10は魔物。バイオハザードもどき。


 

・・

 投稿者:かぐ山のはなこ  投稿日:2017年 5月24日(水)21時49分9秒
返信・引用
  あっ、radioさん。お久しぶり。

・・

ヤマタノオロチが蛇でないと、困るんだがな~
 

spam email

 投稿者:radio  投稿日:2017年 5月22日(月)21時14分10秒
返信・引用
  こんにちは
radioです。 spam emailの増加で私のemailが入った過去の書き込みを削除してほしいです。
下記のアドレスの書き込みです。
お願い致します。

http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3311
 

兎角 ?

 投稿者:憂い  投稿日:2017年 5月 4日(木)02時58分15秒
返信・引用
  うそばなし。根拠のないことについてする無益な議論に500万円。
    竹島からかつて蝦夷地と呼ばれていたエリアに、まるで神が引いたように正確な直角精度で線が到着する様子を見て、信じられないと思う人は多いでしょう。この事実を見て、専門家であればあるほど、大きな衝撃を受けたと考えています。そして、どこかトリックがあるのではないか-と益々疑いが強くなっているかも知れません。
 しかし、この事実には何の裏もありません。データはすべて国土地理院の公式データしか用いていません。計算式も後項に追加したように、公式に認められている式を利用しています。誰がやっても同じ結果が得られるもので、捏造する余地も全くありません。
竹島と一宮・環状列石の不思議な関係http://w312.k.fiw-web.net/hscp/Beginning%20of%20Shinto%20shrine/landscape.html
反論は大歓迎です。HSCPを理論的に否定された最初の方には500万円の礼金を用意してあります。

専門家、団体からでもかまいません。
2014.5.2礼金を10倍に変更

プラウザにFirefoxをお使いの場合、背景が真っ黒になることがあります。他のプラウザIE(インターネット・エクスプローラ)などに切り替えてください
 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2017年 4月11日(火)19時19分27秒
返信・引用
  「兎角、何をぼんやり眺めている」
相手は後をふりかえって、
「泥之助、あれを見ろ。鹿がいっぱい群がって、水を飲んでいる」
「どれどれ、どっちの方角だ」
「あそこよ。こっちから斜めの向う岸だ」
ここは霞ケ浦にちかい、常陸の江戸崎。前を小野川が流れている。小野川は中央がくびれて上流と下流とが瓢箪型に膨らんでいる。
上流のほうの川幅が大きくて、向こう岸がしかと見定められないくらいに広い。川というよりは、小さな湖だ。
対岸は潮来、鹿島につづく、平地の田野である。香取とならんで、我が国武術の祖神とあおがれる鹿島神宮は、江戸崎のちょうどま東の方向にある。
兎角とよばれた男が、じっと見つめていたのは、まさしくその方角だ。泥之助は手桶を地におろすと、まず鹿島の方にむかって、うやうやしく頭をたれ、二つ三つ拍手をならしながら黙祷をささげた後、おもむろに兎角のしめす水面のかなたをのぞんだ。
南よりの遠い向う岸で、白い靄の中に農家の屋根や森の木立らしいものが、黒くちょっぴりと見えるばかり、鹿の影などどこにも見あたらない。
「兎角、何もいやせんではないか」
兎角は角のある眼を、ぎろりと光らせながら、あざ笑うように、
「泥之助、貴様は兵法者に似あわず、心得のにぶいやつだな」
「黙れ、兎角。眼力は貴様よりたしかだ。なんと言われようと、見えないものは見えぬわ」
「そこが貴様の鈍さよ。あの靄の動くのが、わからぬか」
「風におされて、流れるのであろう」
「風なれば、横になびく。あれは、上下にも動くぞ」
「それが、どうしたというのだ」
「つまり、あれは靄ではなくて、鹿どもの息じゃ。河辺につどうて水を飲んでは、空に仰向いて息を吐く。その息が空にたなびき、あのように濃くなったり薄くなったりするのじゃ」

・・

           中山義秀『新剣豪伝』
 

1800年前 ミカンが 銅鐸が 734年 隕石が 

 投稿者:憂い  投稿日:2017年 2月17日(金)11時53分50秒
返信・引用
  734年   隕石http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/3547
740 年→734、1425→1419年に修正し、特に734年、天平4年の五畿七道地震について、隕石衝突の可能性を指摘したことがありました。

それで、その五畿七道地震を調べていくと、確かに火の玉が東へ飛んでいったという記載があることに気付きます。

『熊野年代記』
天平甲戌六

熊野五月大地震神ノ倉崩ス嶺ヨリ火ノ玉東海飛、西金堂ヲ興福寺建四月諸国大地震丙子八

神倉成、今神倉成

なお、五畿七道地震の資料と研究詳細は下記を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%BF%E5%86%85%E4%B8%83%E9%81%93%E5%9C%B0%E9%9C%87

この神倉は新宮市の西北にあるそうで、その峰から東の太平洋側へと火の玉が飛んでいった、それと同時に地震が起きて神倉などが壊れたということになるでしょう。

熊野には、熊野速玉大社があり、速く動く玉を神格化したようにも見受けられます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/熊野速玉大社
https://ja.wikipedia.org/wiki/神倉神社

それで、その火の玉つまり隕石のルート推定ですが、出雲と住吉、そして熊野に関連の災害記録があります。

『出雲国計会帳』
天平六年四月
十六日移太政官下符壹道、地震状

それで、それらの地点をラインを結ぶと図1のようになります。
さらにそのライン周辺、特に熊野周辺のクレーターのような地形を結んだのが図2です。
この角度が23.4度の地球傾斜角、つまり隕石の予想侵入角と一致してきますので、いよいよ、この五畿七道地震は隕石衝突による可能性が出て来るように感じます。

]861年[-8]記録に残る世界最古の隕石「直方隕石」が落下。http://www.toda.co.jp/tc/102/html/0005.html
『日本三代実録』に記録されている860年頃から890年頃[平安時代初期]に起きた主な自然災害。西暦に続く[]内は「貞観地震」を基準とした経過年。[*]貞観地震正史『六国史』の最後として編纂された『日本三代実録』に記録されている。

世界最古」とされる隕石(いんせき)「直方隕石」が22、23日、直方市下境の須賀神社( 岩熊正晴宮司)で公開される。
世界最古 直方隕石http://kenbi-denshin.com/fukuoka/nougatainseki-3528
一般的に 須賀神社は、牛頭天王(こずてんのう)・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社です。

直方市の須賀神社には、「飛び石伝説」として次のような言い伝えがあるそうです。
「飛び石伝説」http://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/ken-dayori/201609/html/doyouknow.html
861(貞観3)年4月7日夜、神社上空が突然真昼のような明るさになり、境内で激しい爆発音が起こった。
深くえぐられた穴をのぞくと、黒く焦げた石。その石は桐箱に納められ、代々大切に受け継がれている。

祭祀の始祖は、筑紫の国造「田道の命 」(考元天皇の五世の孫)で、筑紫物部を率いて神々を祀る。
劔神社http://tsurugijinja.on.omisenomikata.jp/

「劔畷」 人が集まる田(耕作地)+叕(つながる)http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/3251
たんぼ道・・・【田路/田道】?

田道間守が 垂仁天皇の命を受けて東晋を訪問した史実をもとにしてできたものではないか。また、物 部氏についても畿内の庄内式土器の分布や銅鐸との関連を述べる。
物部氏の東遷と考古学http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku221.htm

倭の奴国王が金印を授かる(57年). 100年 (今 から1900年前). 200年 (今から1800年前), 7.『本山に銅鐸が埋められる』http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/center/useful/historynews/index.html
1800年前

1800年前、田道間守(たじまもり)が朝鮮から持って来たタチバナを小天の農民たちに植えさせたのが始まりといわれています。熊本のミカンは、古くから産地の名を冠した高田(八代)ミカン・河内ミカン・小天ミカンなどが知られています。
河内ミカン・https://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-snvaio&p=%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93&ei=UTF-8
河内
銅鐸http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html
分布は山陰と畿内(摂津・河内・大和)に集中 しているのが目立ちます。

大和(奈良県)から河内(大阪府)に入るルートに位置する柏原市亀の瀬などのあたりは、隘路となっており、まさにテルモピレー(テルモピュライ。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」によれば、紀元前480年、わずか300のスパルタ兵を中心とするギリシア軍計約5千余が、約210万ものペルシアの大軍を迎え撃ち、3日間にわたって、くい止めたとされる)ともいうべき立地である。一夫関に当たれば万夫も開くなし(李白「蜀道難」)であろう。このあたりに何故、一度も城や砦が築かれなかったのか、不思議といえば不思議である。現在、大阪教育大学があるあたりとか、あるいは玉手山のあたりなどに城か砦を造れば、防御体制としては完璧だと思うのだが。ひょっとすると、亀の瀬の西側に建立されていた河内国分寺(柏原市国分東条町)や合流点近くにあった鳥坂寺(柏原市高井田)などには、そういった機能もあったのかもしれない。あるいは、地形が狭隘すぎて、もともと大軍を進めるには不適当だと考えられていたため、城や砦を造るなどという発想は、最初からなかったのかもしれない。
天に輝く国の 棚機(七夕)か
それか あらぬか
高く光る 日の若宮の
神嘗(かんなめー今年の収穫を奉納する)の日若祭りは。

今日一日 舞え舞え騒げ 騒げ舞え
妹今に来む 背子今に来む

多賀神社http://lunabura.exblog.jp/14003855/

古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。日本最古の書物「 古事記」によると、この両神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、我国の国土、 続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。

遠賀川 流域は物部氏のゆかりの地域である。倉師(くらじ)大神から高倉下を祀る神社とされる 。
劔神社 (直方市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%9B%B4%E6%96%B9%E5%B8%82)
祭祀の始祖は、筑紫の国造「田道の命」(孝元天皇の五世の孫)で、筑紫物部を率いて神々を祀ると云う。田道の命の橘孫「長田彦」が、神官となった。

たみち【田路/田道】とは。意味や解説、類語。田の間の道。あぜ道。畷 (なわて) 。http://dictionary.goo.ne.jp/jn/138953/meaning/m0u/
畷・・・コンパス?
 「叕テツ」 <つながる> と 「綴テイ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/87d1fa49cae4fc9c536626dcdfee3c86
「点綴テンテイ」(点をひとつひとつ結びつける)
畷 テツ・なわて  田部
解字 「田(耕作地)+叕(つながる)」の会意形声。耕作地をつないで走るあぜみち。
意味 (1)なわて(畷)。縄手とも書く。あぜみち。たんぼ道。 (2)まっすぐで細長い道。 (3)地名。「四條畷市シジョウなわてシ」(大阪府東部の市)

「馬」の渡来地は大阪四條畷市http://hyakka.seesaa.net/article/431883223.html
朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

当時、柏原市域を含めた 河内一帯の中小豪族は、物部氏側だったと思われる。http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014111600040/?doc_id=2373
蘇我・物部の戦い(丁未の乱)
 西暦538年に伝来した仏教をめぐり、西暦587年7月、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との間に戦端が開かれた。馬子の軍勢は、河内国渋川郡(現・東大阪市や八尾市などの一帯)の守屋の館を目指し、大和から河内に向かって進撃した。厩戸皇子(うまやどのみこ=後の聖徳太子)や泊瀬部皇子(はつせべのみこ=後の崇峻天皇)らの皇族も馬子と行動をともにしたという。両軍は、餌香川(えががわ)の河原で激突した。両軍の戦死者は数百にのぼったとされる。暑い時期のことでもあり、打ち捨てられた戦死者の状況は凄惨なものであったという。

大和(奈良県)から河内(大阪府)に入るルートに位置する柏原市亀の瀬などのあたりは、隘路となっており、まさにテルモピレー(テルモピュライ。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」によれば、紀元前480年、わずか300のスパルタ兵を中心とするギリシア軍計約5千余が、約210万ものペルシアの大軍を迎え撃ち、3日間にわたって、くい止めたとされる)ともいうべき立地である。一夫関に当たれば万夫も開くなし(李白「蜀道難」)であろう。このあたりに何故、一度も城や砦が築かれなかったのか、不思議といえば不思議である。現在、大阪教育大学があるあたりとか、あるいは玉手山のあたりなどに城か砦を造れば、防御体制としては完璧だと思うのだが。ひょっとすると、亀の瀬の西側に建立されていた河内国分寺(柏原市国分東条町)や合流点近くにあった鳥坂寺(柏原市高井田)などには、そういった機能もあったのかもしれない。あるいは、地形が狭隘すぎて、もともと大軍を進めるには不適当だと考えられていたため、城や砦を造るなどという発想は、最初からなかったのかもしれない。
 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2017年 2月16日(木)19時11分8秒
返信・引用
  永承四年内裏歌合によめる

嵐吹くみむろの山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり(後拾遺366) 能因法師

・・734年畿内七道地震は、生駒山地系と金剛山地系の間の断層帯。竜田川大和川の筋か?

・・神武vs長髄彦の戦いのダブルイメージ。孔舎衛坂(くさえのさか)で五瀬命負傷。

「今我は是(これ)日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして日に向いて虜(あた)を征(う)つは、此(これ)天道(あめのみち)に逆(さか)る也。 若(し)かじ、退(しりぞ)き還りて弱きを示し、神祇を禮(いや)び祭りて、背(そびら)に日神(ひのかみ)の威(いきおい)を負い、影の隨(まにま)に壓(おそ)い躡(ふ)まん。 如此(かく)なせば、則(すなわ)ち曾(かつ)て刃に血せずして、虜(あた)必ず自ずと敗(やぶ)れん」

ちはやぶる →血は敗る

ちはやぶる神世もきかずたつた河からくれなゐに水くゝるとは  業平


・・神世は神代紀にはなかったことだ。イワレヒコから人と人の血を流す戦いになる。

「地は破る」なら734年の地震だろう。

・・業平、能因では、869年の陸奥海溝地震のイメージがさらにダブる。
 

加具 火の神

 投稿者:憂い  投稿日:2017年 2月 9日(木)23時51分55秒
返信・引用
  ククル』は『犬』のネパール語です。
「ククル」ってのはネパール語で「犬」 のこと。 1日目はカラスでしたが、2日目は犬が対象に変わりました。 なぜ犬なのか? これにもちゃんと理由があります。 カラスと同様、犬も閻魔大王の使者 ...
光のお祭りと呼ばれている「ティハール」。http://www.keikawakita.com/entry/2016/12/nepal-tihar
1日目:カグ・ティハール(カラスの日)
2日目:ククル・ティハール(犬の日)
3日目:ラクシュミ・プジャ(お金の女神ラクシュミの日)
4日目:ガイ・プジャ(牛の日)
5日目:バイ・ティカ(兄弟の日)

「カグ」ってのはネパール語で「カラス」のこと。

カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎは やをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちの かみ;加具土命)と表記される。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B0%E3%83%84%E3%83%81

熊野大社の境内に、神器の火鑽臼(ひきりうす)と 火鑽杵(ひきりきね)を保管する鑚火殿(さんかでん)という建物がありhttp://ameblo.jp/taishi6764/entry-12069513821.html
燧臼・燧杵は、古代の人々が火を熾す際に使った道具である。神社の祭りや神事では、この道具を神聖な神火を鑚り出す方法として今も使用している。
ブログ?出雲国造の「“火継=霊継”(ヒツギ)の式」

近畿地方の南から北へ一直線上に「火の祭典」
近畿地方の南から北へ一直線上に那智・奈良・鞍馬・若狭と並んで同じような火の祭典がある。
 【鞍馬の火祭り】
 【京都五山送り火 】
 【東大寺の二月堂「修二会(しゅにえ)」】
 【熊野速玉大社の奥の院 神倉神社御燈祭(おとうまつり、御灯祭、お灯祭とも)】
 【那智の扇祭り】
 【熊野本宮大社「八咫(やた)の火祭り」】
 

ヤハー 降る

 投稿者:憂い  投稿日:2017年 2月 9日(木)23時26分44秒
返信・引用
  〔1古今集巻5-294〕
ちはやぶる神世もきかず竜田河唐紅に水くくるとはーなりひらの朝臣
「チハヤブル」
《彼(ダビデ)は脅かすべく、神(ラグエル)をつけ狙った。》
「カミヨモキカズ」
《畏れられる者としての時、彼(ラグエル)は、彼ら(ユダヤ教徒)の神(ダビデ)に立ち向かった。》
「タツタガハ」
《彼(ミカエル)の代理である彼(ダビデ)は、癒す者(ラグエル)に一線を隔したのであった。》
「ミズククルトハ」
《(また)企む者としての降り懸からせる者(ダビデ)は、(責任を彼に)なすり付けた。》(7.20.)

くくる 「クルクー」 「使徒」 鸞 神に伝える鳥http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2843
チハヤブルhttp://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage19.htm

踏鞴、多々羅、蹈鞴、 多田羅、立田羅など、「タタラ」地名は、窯のあった場所の字名です。http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6227687&id=77574610

タタラの語源はタタル( タタール)=タタラの語源は、タタール族のダッタン語で熱を意味する「 ...http://ameblo.jp/aries-misa/entry-11472264973.html
たたら製鉄と タタール人とユダヤも繋がってしまうのです。
 

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