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方位線

 投稿者:山田  投稿日:2020年 8月11日(火)23時38分57秒
返信・引用
 
先日ある美術家と話していて、私も少々手掛けている方位線思考についてひどく批判されました。北緯東経などの座標提示が退屈でおもしろくないと一蹴された訳です。
自分の方位線思考はもともと厳密なものでなく、ある種の方がされている測量の方便と結果の追認というきびしさはありません。測量イベントなら時空の共有が必然であり、それなり歴史事象の解明にもつながるのでしょう。それはそれでありうることと思います。
ただ、方位・方位線というのは測量以前に不可避的に存在するものだから時空の分離があってもよいのだと思う。大昔に起こった事象の位置と時をへだてた現在の事象の位置が際立った方位線で結ばれることは、測量の結果では必ずしもない。要は方位線自体の力でしょう。
まあ方位線思考は自分は遊び半分、遊びのむこうにあること彼には読む力があるか、ここの掲示板のだれそれの話ではありません。美術家と平塚の長老の話です。…読み飛ばしてください。

 
 

八千矛神…スサノオ(牛頭天王=バール神)…大国主命…

 投稿者:吾亞風  投稿日:2020年 8月 9日(日)16時34分45秒
返信・引用
  薙刀…生稚児(いきちご)を乗せる長刀鉾
薙 稚 …陽気を感じ…推測?
稚 チ・いとけない  禾部
解字 「禾(さくもつ)+隹(チ)」の会意。チは遅チ(おそい)に通じ、成長が遅れて短く小さい作物を示す。転じて、いとけない意となる。
意味 いとけない(稚い)。おさない。わかい。「幼稚ヨウチ」「稚拙チセツ」「稚魚チギョ」
隹 スイ  隹部
解字 尾の短いとりを描いた象形。ひろく、とりを意味する。また、古くは「これ」の意味の代名詞として仮借カシャ(当て字)された。この意味は「維」の字に残っている。古代の中国では、鳥は神意の媒介者と考えられ、鳥を使った占いも行なわれた。隹を音符に持つ字は多いが、「とり」「とり占い」以外は、他の文字の発音を利用した形声文字である。
意味 (1)とり(隹)。ふるとり(隹)。尾の短い鳥の総称。 (2)ふふどり(カッコウの古称)。きじばと。
イメージ
 「とり」(隹・維)
 「とり占い」(進・誰・唯・雖・惟・讐)
鉾…
鉾 ボウ・ム  金部https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/b7ab24d77ca1b11afafb4cdab6afd941
解字 「金+牟(ム)」 の形声。ムは矛ム(ほこ)に通じ、金属のほこの意。
意味 ほこ(鉾)。両刃の剣に長い柄をつけた武器。矛・戈カとも書く。ほこさき。「山鉾やまぼこ」(祭りの山車だしの一種で上に鉾や薙刀を立てたもの)「玉鉾たまほこ」(玉の飾りのある鉾。鉾の美称=玉矛)
「山鉾やまぼこ」…
長刀矛…
鉾先きに大長刀をつけているのでこの名で呼ばれる。長刀は疫病邪悪をはらうものとして、もと三条小鍛冶宗近の作が用いられていたが、現在は大永二年(1522)三条長吉作の長刀を保存し、複製品を鉾頭としている。この鉾は古来「くじとらず」といい毎年必ず巡行の先頭にたち、生稚児の乗るのも今ではこの鉾だけである。真木のなかほどの「天王座」には和泉小次郎親衡の衣裳着の人形を祀っている。屋根裏の金地著彩百鳥図は松村景文(1779~1843)の筆、破風蟇股の厭舞と小鍛冶宗近が神剣を造る姿の木彫胡粉彩色の彫刻は片岡友輔の作である。
前懸はペルシャ花文様絨毯、ペルシャ絹絨毯(古)、胴懸には中国玉取獅子図絨毯、十華図絨毯、梅樹図絨毯、中東連花葉文様インド絨毯など16世紀~18世紀の稀少な絨毯が用いられていたが、現在はその復元品を使用。見送は雲龍波濤文様綴織が平成17年に復元新調されている。平成20年度に下水引全面の新調が完了した。
矛…予ヨ(われ…)…
解字 金文は穂先をつけた槍のような武器の象形。上の曲線が刃先、途中の半環状のものは、飾り紐をつける耳といわれる部分と思われる。この下に柄がつく。篆文から大きく形が変わり、これを受け継ぎ、隷書レイショ(漢代)が成立、現代字へとつづく。矛は部首となるが、「ほこ」の意で音符ともなる。篆文以降、形が変化したので、「予ヨ(われ)+ノ」と覚えると便利。
戈 カ・ほこ  戈部https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/1eaf3a8136180d327539f5bf0e00ec28
戈カ(部首):戍ジュ・戎ジュウ・戌ジュツ・成セイ・我ガ・戒カイ・或イキ・戔セン・戚セキ・戯ギ・戠ショクなど。このうち、戍ジュと戯ギ以外はすべて音符となる。戈の部首字は音符の宝庫である。
まもる(戍る)。国境や城をまもる。およびその兵。「戍卒ジュソツ」(国境や城砦を守る兵卒)「衛戍エイジュ」(衛も戍もまもる意。軍隊が長く一つの土地に駐屯すること)
「屯倉」は『日本書紀』の表記。 『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。 「官家」もミヤケと読まれることもあり、後に「郡家」はコオリノミヤケ、「五十戸家」がサトノミヤケと読まれた可能性がある。https://ja.wikipedia.org/wiki/屯倉
屯倉と書いて『みやけ』と読みます。…屯…屯岡八幡宮…
桓武天皇の御代延暦年間坂上田村麻呂の創建で天喜年間源頼義父子東征に当り戦勝を祈り、甲冑を奉納、祭田を寄進した。https://www.miyagi-jinjacho.or.jp/jinja-search/detail.php?code=310020622
父は苅田麻呂…カル カリ…測量
大伴弟麻呂…
伴…半…分かれたもの…
半 ハン・なかば  十部  https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/4b7a196c564253bb1947b6d9ed925e32
解字 金文・篆文は「牛(うし)+八(二つに分ける)」の会意。牛を二つに分ける意。角つののある部分(頭部)を体から切り分けることを解カイ(牛の角で代表させる頭を刀で切りはなす)といい、この後、背割りといって牛の背骨を二つに分けて半分にする。これが半の字の成り立ちである。旧字は牛の部分が二本線にタテ棒になり、現代字はさらに八⇒ソになった半になった。意味は、二つに分ける・半ば・なかほど、となる。検索のための部首は十。
意味 (1)二つに分ける。「半分ハンブン」「折半セッパン」 (2)なかば(半ば)。なかほど。「半途ハント」「夜半ヤハン」 (3)ちいさい。「半鐘ハンショウ」 (4)[国]さいころの目の奇数。「丁半チョウハン」(双六のサイの目の偶数と奇数)
イメージ
 「二つに分ける」(半・判・鵥・胖・畔・拌・袢)
 「分かれたもの」(絆・伴)…絆…分岐?
「安曇」という郡名が現れるのは奈良時代(700年代)。 また、この地域一帯には、平安初頭の武将・坂上田村麻呂[さかのうえのたむらまろ]に滅ばされたという八面大王[はちめんだいおう]の伝説も語り継がれている *6。 当時、この地帯の山麓には、官の領する牧場[まきば]があったらしい。
海人・安曇族の里 ―安曇野水土記https://suido-ishizue.jp/nihon/07/01.html
海神系氏族とされ、大和朝廷以前、弥生時代の頃から重要な地位にあったと伝えられている。その本拠地は北九州の志賀島一帯、遠く中国まで交易をし、海部[あまべ]*2を支配して勢力を誇った有力な豪族である。後に、白村江[はくすきのえ]の戦い*3を指揮した安曇比羅夫[あづみひらふ]など大和朝廷の水軍の指揮官を務め、外交、あるいは内膳[ないぜん](食事)職としても高い地位にあった。

神々の系譜と海神族の初期分岐過程http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/shintoufu/shintoufu1.htm
神々の古代の後裔氏族諸氏は、祭祀・習俗やトーテム、管掌する職務、保持した地名等々に各々大きな特徴があり、もちろん先祖神の奉斎も基本が明確だから、山祇族、海神族、天孫族という氏族系統の分類はほぼ明確にできる。
素盞嗚神は、天照大神の弟ではなく、いわゆる「出雲神族」…

大伴氏族は、天押日命の後裔とされ、神武天皇より早い時期から日本に来た。 2.大伴氏族は、宮門の警衛にあたる軍事職掌の氏族であった。国造家は全く創出されていない。
この氏族の分布は、中央では畿内及び紀伊などその周辺にあり、地方では東征随行の影響で陸奥にかなり広範にみられる。大伴氏族から神代に分岐したかのような系譜をもつ久米氏族は、実際には崇神前代に分岐した近い氏族だったとみられる。

坂上田村麻呂の用語解説 - [生]天平宝字2(758)[没]弘仁2(811).5.23.平安時代初期の武将。父は苅田麻呂。宝亀 11 (780) 年近衛将監,延暦6 (787) 年近衛少将,同 10年征東副使に任命され,同 13年征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討ったhttps://kotobank.jp/word/坂上田村麻呂-68533

屯倉神社…
八幡宮ですから、御祭神は菅原道真公、そして須佐之男命、品陀別命です。
境内の鳥居に酒屋神社の名があります。
屯倉神社と酒屋神社(松原市)https://ameblo.jp/amatsuhiko/entry-12492707825.html

長刀…
中国大陸より伝来した各種の長柄武器から発展したものと考えられているが、農器具としての「鉈」には「草刈大鎌」「枝切大鎌」と呼ばれる長い柄をつけたものがあり、同じように櫃を用いて固定する形式のものであることから、これらの長柄鉈から発展したという説も有力である。このため、筑紫薙刀を「鉈長刀(なた-なぎなた)」または「無爪鉈長刀(むそう-なた-なぎなた)」とも呼称する。「鉈長刀」の呼び名は、『大友興廃記』の中でも度々登場し、大友氏ではこの武具が重用されていたことを示している。
また、大阪府羽曳野市の壷井八幡宮には神功皇后所持との伝承がある薙刀が収蔵されており、この薙刀は筑紫薙刀の形式である。
大友氏が重用 筑紫薙刀…
薙刀…
[2683] 薙(全羅北道南原市) フェニキア民族の根拠地?
…『説文解字』には 、「雉」と「鷫〔シュク〕」の字に四方の神鳥の名前がみえる。 雉は瑞鳥として ... 草を切る という意味の「草薙の剣」の薙〔チ〕と同じ意味です。 □『易経』のかな ...
「草薙の剣」の薙〔チ〕と同じ意味…
…雉は陽気を感じることが出来る鳥だそうです。
陰気のなかに微かな陽気を感じて鳴く時期だそうです。
鼎?
九三。鼎〔かなえ〕の耳革〔あらた〕まり、その行塞〔ふさ〕がる。
雉の膏〔こう〕食らわれず。方〔まさ〕に雨ふらんとして悔を虧〔か〕く。
終に吉なり。
草を切るという意味の「草薙の剣」の薙〔チ〕と同じ意味です。
薙〔チ…〕
…人は草のイザヤ預言http://www.geocities.jp/zuisoukai/hitohakusa.html
草薙の剣の「薙」の漢字の草冠をなぎ払えという暗号であり「雉」を家来にした桃太郎に、大和建国の意図の奥義が渡されたのである。
…炎帝神農こそバール神であり、古韓国語ではスサという。牛頭(ごず)天王(てんのう)の別名を持つ「スサノオ」である。
 なぜ殷王朝にオリエント・地中海世界のバール神なのか。殷族とは本来、アーリア系イン族とされる。
加えてシュメールのウル第3王朝がBC2024年に滅亡した事と、かなりの関係があるように思われる。
神話では易経と文字の発明は伏羲(ふくき)の役になっているが、崑崙山を越えて来たシュメール文明の末裔たちが創始したのではないかと。
 殷は天地自然の神々を信仰し、王を支える武士団が存在し、殉死の風習があった。
周に殉死はない。一族の旗印は白。周は赤。民族の守護神は、フェニキア人同様に鳥(鳳凰)だった。
 

本来は山神または水神…ヤマタノオロチとは高句麗族(オロチョン族)…

 投稿者:吾亞風  投稿日:2020年 8月 9日(日)11時54分0秒
返信・引用
  高志之八俣遠呂智、年毎に来たり(古事記)」がみえ、古代日本の地方である高志(こし)から来たとされる。「ヤマタノオロチ」という名称の意味は諸説ある。本来は山神または水神であり、八岐大蛇を祀る民間信仰もある[1][2][3]。なお本居宣長は『古事記伝』にて、八俣遠呂智は「ノ」を添えず「ヤマタオロチ」と訓むべきだとしている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマタノオロチ
長野県佐久市常和の山田神社[14]は、ヤマタノオロチとゆかりがあるという蛇石(へびいし)を祭っている[15]。八岐大蛇が素戔嗚尊に退治された時、その魂が石の形で留まったものとされ[16]、蛇石の上に蛙を置いたところ自然と消失したり、石が年々大きさを増し、祠を作って覆ったがその祠を壊して出てきたため、土地の産神として祭ったところ大きくなることはなくなったという伝説がある[17]。
須佐神社には、ヤマタノオロチの骨とされる物が納められている。
高志(こし)から来た…
北陸道の古称。越。高志。越の道。
越…
越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の、大化の改新以前の日本古代における呼称である。その後、7世紀に設けられた地方行政区分としての「国」に引き継がれた。当時は高志国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。のちに令制国への移行に際して分割され、越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国となった。越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの地域名称の語源である。 https://ja.wikipedia.org/wiki/越国
古くは古事記にて八岐遠呂智の出身地であったり、八千矛神が高志の沼河比売のもとに妻問いに行った神話が記され、出雲国風土記にも所造天下大神が古志の八口を平定した話や、古志人が出雲に来たことが記されている。
古くから交易や交流などはあったもののヤマト王権の勢力が十分に及ばない日本海側の地域であり、紀元前の孝元天皇の第1皇子、四道将軍の大彦命に平定される前の「越」は諸豪族(豪族阿彦など)に支配されていたと推定されている。
日本書紀によれば欽明天皇5年(544年)12月、佐渡島に渡来する粛慎人のことが越から朝廷に報告され、その後573年に高麗使人が越の海岸に漂着、船が難破し多数の溺死をみたこと、翌年にも彼らの漂着が報告され、589年になると朝廷は阿倍臣を北陸道に派遣して越など諸国の境界を調べさせている[7]。
孝徳朝(645年~654年)には蝦夷との境界として647年(大化3年)に渟足柵が設けられ「越」の北端となり、その後磐舟柵、初期の出羽柵までと次第に北端は伸びていった[6]。越国守阿倍比羅夫が658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ったと伝わるなど、一方の安定した西端と比較し、北端は蝦夷に対する侵略の最前線となった辺境地域であった。
それまで国造などの現地勢力を通じて間接的に支配されていた越国は、大化の改新によりはじめて中央政府から国司が派遣される「国」として成立した[8]。さらに689年?692年(持統3?6年)大宝律令による令制国の設置にともない、都があった近畿に近い地域から順に、越前国、越中国、越後国の3国へと分割された。この後は3国それぞれの歴史を歩むこととなるが、「越州」の呼称は分割後も三国の総称またはそれぞれの国の別称として広く用いられ、3国は越州(えっしゅう)あるいは三越(さんえつ)と呼ばれることがある。さらに、越前国から能登国が、ついで加賀国が分立され、また越後国の出羽郡が出羽国として分離されている。
八千矛神…
大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名の一つ。「古事記」で、高志(越)国の沼名河比売を妻問う時の話に用いられている名。https://kotobank.jp/word/八千矛神-648540
大国主命…
出雲王朝はインド・アーリア人と同族で、スサノオ(牛頭天王=バール神)を祖神(おやがみ)とする青銅騎馬民族イン族の国と言われている。
BC1024年殷が周によって滅ぼされた時、周の武王から強い要請をうけ、朝鮮半島に赴き、新王朝を建国した殷の末裔・箕子(きし)一族である。
銅剣の分布からみて、彼らは朝鮮から対馬、筑紫に上陸し、その後出雲一帯に移住したものと思われる。https://ameblo.jp/rekishi33/entry-10429409398.html
インド・アーリア人と同族…
匈奴はスキタイ同様に髑髏杯を作って酒を飲んだ。スキタイ出身の郷土人なら、血を飲んだかもしれませぬね。 そういえば日本の戦国武将の織田信長も、髑髏杯を作ってたとか言いますhttps://tacchan.hatenablog.com/entry/2014/04/29/174825
髑髏杯を作って酒を飲んだ…
匈奴はスキタイ同様に髑髏杯を作って酒を飲んだ。スキタイ出身の郷土人なら、血を飲んだかもしれませぬね。
…北陸道は「くぬが道」と読むの知ってましたか。「日本書紀」にあります。くぬがの「くぬ」は、狗奴(くな)がなまったものだとすれば、北陸道は狗奴国の範囲だったことになります。
関東地方の毛野(けの)も、狗奴の転訛でせう。上野国(こうずけのくに)は群馬県のことで、下野国(しもつけのくに)というのは栃木県のことで、両者は「けの」を含んでます。
…古事記によれば、武埴安彦(建波迩夜湏?古)の父は孝元天皇なのですが、母親の名前も波迩夜湏?売で、波迩がやはり匈奴を表していて、この女性が匈奴人だったのかもしれんです。…
…モンゴルに、ノイン・ウラ遺跡というのがあり、匈奴の積石墓(ノヨン・オール24号墳)があるのですが、これが誰が見てもまるっきり前方後方墳の形状をしてると分かるのです。
モンゴル…
オロチョン族(Orochon,Oroqin、繁体字:鄂倫春、簡体字:鄂?春族)はアルタイ諸語のツングース系の言葉を話す民族(ツングース系民族)。 主に北東アジアの興安嶺山脈周辺で中国領内の内モンゴル自治区、その近隣のロシア領内に居住するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/オロチョン族
オロチョン族の伝統的な住居は、比較的細いシラカバなどの幹の柱を何本も組んでその外部をシカ類などの毛皮で覆った円錐形の天幕式住居だが、定住化が進んだ現在では、日常的には近隣の漢族やロシア人と同様の住居で生活し、泊まり掛けの狩猟の際に山野で臨時に設けるのみである。このような天幕式住居はエヴェンキも伝統的に製作・使用してきた。
オロチョン族のY染色体ハプログループはC2が61.3%、O2が19.4%である[2]。
オロチョン…
ヤマタノオロチとは高句麗族のことだった!(田中直人) ヤマタノオロチとは高句麗族(オロチョン族)ことなので「オロチ」らしい。#「越中ふんどし」は「オリベふんどし」「オロッペふんどし」などとも呼ばれていたらしい。
オロチョン族が北陸の先住民?(ヤマタノオロチ伝説) https://toide.blog.fc2.com/blog-entry-12.html
「北陸地方にあった8つのクニを大国主の祖先であるスサノオ(素戔男尊/素戔嗚尊/素戔烏尊)が平定した」
と解釈する説があります。(出雲国風土記「越の八口」平定、の記述)
…農耕していた北陸弥生前期人の国々にオロチョン人が襲来し、襲って回った。それをスサノオが退治した、ということなのではないでしょうか。そのオロチョン人の首領が8人だったのではないでしょうか。
高句麗…Y染色体ハプログループC2系統と同一民族…
高句麗や扶余が存在した時期を含め、悪魔の門の周辺は粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨・女真と呼ばれた民族が生活しており、約7000年前から現在まで同地域に生活したY染色体ハプログループC2系統と同一民族であろう。
ツングース系民族でアムール川中流域に居住するナナイ、アムール川上流域に居住するオロチェンとも似ているが、遠く離れたタイミル半島のガナサン人、朝鮮半島の朝鮮・韓国人、そして日本列島の日本人とも同程度遺伝的近似性が見られた。
Y染色体ハプログループC2b(新表記)系統(参考)
C2系統は、北部アジア及びシベリア地域の住民に多く見られる。現代の少数民族であるオロチョン、エヴェンキ、ブリヤート諸族で80%以上を占め、モンゴルや満州地域では30-50%の割合を占める。アイヌでは13%、朝鮮半島には10%程度検出される。北海道へのC2系統の流入は、アイヌ文化の始まる前の段階である平安後期の擦文文化の時代で、同時期に北海道の北及び東北部にはギリヤーク人のオホーツク文化圏があった。彼らは沿海州アムール河から樺太にかけて居住していた漁労民である。C2が流入してアイヌ文化が成立する原因となったのは彼らとの交流交易や戦いを原因とする混血によるものと推定されている。
⑥ 朝鮮半島のかつての百済、高句麗の跡地にY染色体ハプログループC3(旧表記)(現表記ではC2b)が分布している(参考)
百済や高句麗の民は日本に逃れ、空白となった跡地にC2bの民が入れ替わりに入って来た。
百済人、高句麗人、扶余人をはじめ東夷諸国は原日本語を喋っていた(参考)。
日本・百済・高句麗?扶余は同一言語であったhttps://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12574660042.html

騎馬遊牧民であるスキタイ人の文化は、騎馬の技術、馬具、武器に施された動物紋などが特徴である。紀元前1000年紀に中央ユーラシアに広く影響を与えた。 前7世紀から前6世紀のスキタイ人の首長を埋葬した墳墓(クルガン)が発掘され、おびただしい金製品が発見された。https://www.y-history.net/appendix/wh0401-005.html
前6世紀後半、イラン高原に興ったアケメネス朝ペルシア帝国(アカイメネス朝)は、西方のギリシア諸都市に対する遠征を行いペルシア戦争となっただけでなく、東方の中央アジア方面にも盛んに勢力を伸ばそうとした。そして西方ではギリシアの北方の黒海南岸のスキタイと接触したが、それを従属させることは出来なかった。また東方に進出したアケメネス朝は、「サカ」と総称される遊牧騎馬民族と接触した。ヘロドトスはこのサカについても記録を残している。ヘロドトスはサカをサカイと呼び、「サカイ、すなわちスキタイは、先が尖ってピンと立ったキュルパシアという帽子を頭にかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリスという(双頭の)戦斧を携えていた。・・・ペルシア人は彼らをサカイと呼んでいた。というのは、すべてのスキタイにサカイという名前を与えていたからである」<『歴史』巻7 64>と書いている。
墳墓(クルガン)…
クルガン(кургáн, kurgan)は、ユーラシア大陸中緯度のステップ帯に分布する、青銅器時代の土による墳丘を伴う墓もしくは積石塚のマウンドを伴う墳墓である。墳丘墓の一種で、日本の古墳に近い。https://ja.wikipedia.org/wiki/クルガン
クルガン仮説は、クルガンを建設した人々がインド・ヨーロッパ祖語の話し手であったとする仮説である。
「クルガン」はトルコ語起源のスラヴ人の単語である…。
スラヴ人…
ハプログループRは約7万年前にインド、南アジアで誕生したといわれるグループです。
ハプログループAやN9と同じくグループNを共通祖先としています。南アジアを中心に分布したグループですが、彼らの子孫は北アフリカ、ヨーロッパ全土やオーストラリア、アメリカ全土など広域に広がっていきました。https://u-gene.jp/column/haplogroup-r/
スラヴ人の多くはコーカソイド人種の特徴を持っている。原住地はカルパチア山脈周辺と推定され[3][4]、スキタイ人やサルマタイ人を吸収同化して同一の言語集団として成立して行った。その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、6、7世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていた[5][4]ものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持つ。

スラヴ人(スラヴじん) [1] は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族 スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。https://ja.wikipedia.org/wiki/スラヴ人

インド・ヨーロッパ語族はアーリア人(アーリアは“高貴”という意味)とも呼ばれ、中央アジアを原住地としていましたが、紀元前2000年ごろから ...
https://www.msn.com/ja-jp/money/other/ヨーロッパ人とインド人は%EF%BD%A4同じ民族なのか-意外と知らない%EF%BD%A2民族のルーツ%EF%BD%A3/ar-BBJgq5f
 

酒と刀

 投稿者:山田  投稿日:2020年 8月 9日(日)08時24分49秒
返信・引用 編集済
 
八塩折ノ酒


此天皇、以沙本毘賣爲后之時、沙本毘賣命之兄・沙本毘古王、問其伊呂妹曰「孰愛夫與兄歟。」答曰「愛兄。」爾沙本毘古王謀曰「汝寔思愛我者、將吾與汝治天下。」而、即作八鹽折之紐小刀、授其妹曰「以此小刀、刺殺天皇之寢。」故、天皇不知其之謀而、枕其后之御膝、爲御寢坐也。爾其后、以紐小刀爲刺其天皇之御頸、三度擧而、不忍哀情、不能刺頸而、泣涙落溢於御面。

>八鹽折之紐小刀

酒は刀にとってかわられる。 
 

 投稿者:外野席  投稿日:2020年 8月 7日(金)21時28分41秒
返信・引用
 
https://www.youtube.com/watch?v=7iV0jRVtukg

ゆらゆらゆれる
 

賁(盛り上がる)「φ」+鼎(アリダード)

 投稿者:吾亞風  投稿日:2020年 8月 7日(金)09時06分17秒
返信・引用
 
解字 「土+賁(盛り上がる)」 の会意形声。大きく盛りあがった土の墓。
意味 はか(墳)。土を盛り上げてつくった墓。「古墳コフン」「墳墓フンボ」「円墳エンフン」

三つのものが並び立つ。「鼎立テイリツ」「鼎談テイダン」(三人が向かい合って話す)
貞 テイ <鼎による占い>https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/ed08f168932e140822db7232ef713e77
貞 テイ・ただしい  貝部

貝+卉賁形声文字。貝+卉。音符の卉(ホン ) は、人の足あとの三つ並んだ形にかたどり、さかんに走るの意味。
銅鐸祭祀http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/601
貝+卉
賁形声文字。貝+卉。音符の卉(ホン )は、人の足あとの三つ並んだ形にかたどり、さかんに走るの意味。 ...
http://blog.goo.ne.jp/sh_tech/e/e7503adba1ac44b08f836577787fed3b
形声文字。貝+卉。音符の卉(ホン)は、人の足あとの三つ並んだ形にかたどり、さかんに走るの意味。貝殻に模様がさかんに走っているの意味から、かざるの意味を表す。
古墳 賁・・・心・・・眞

眞:仙人變形而登天也眞:仙人が形を變えて天に登ることである。天に登り得る域に達し ていることを眞と呼ぶ。 遷人となっているものもあります。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14154992044?__ysp=55yeICDop6PlrZc%3D

「真 シン」  <中身が詰まる>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/681d475fedeb03084ca2729aef9694bf
解字 金文は、「ヒ(さじ)+鼎(かなえ。煮炊きの器)」 の会意。鼎で煮炊きした食べ物を匙ですくう形で、鼎のなかに食べ物がいっぱい入っているさまを表す。その中身がいっぱいに詰まっていることから、「ほんもの」「まこと」の意味に仮借カシャ(当て字)された。篆文から眞の形になり、新字体は、さらに真に変化する。
意味 (1)まこと(真)。ほんとうの。「真実シンジツ」「真理シンリ」 (2)まったくそのままの。「純真ジュンシン」「真性シンセイ」 (3)ものの姿。「写真シャシン」

イメージ  「まこと(仮借)」 (真・槙)
       「中身がつまる」 (鎮・塡・嗔・瞋)
       中身がすみずみまで 「ゆきとどく」 (慎)
       「同音代替」 (顚・癲)
音の変化  シン:真・槙・慎・嗔・瞋  チン:鎮  テン:填・顚・癲

アリダード(alidade、日本名:示方規)とは、平板測量に使う機器であり、平板上に置いて、目標地点を見て方向を決めるのに使う。 https://ja.wikipedia.org/wiki/アリダード
アリダードは、定規・3ヶ所の視準孔・後視準板・視準糸・前視準板・分画目盛があり、測板に載せて、目標に立てたポールを25cm程度の木製定規に視準板を付け、方位・傾斜を定め、巻尺で測定した目標点までの距離を所定の縮尺で図上にプロットするための機器である。また、平板上に地図・間接的に距離・高低差を求めることが可能である。
三本足の青銅器
「鼎」とは、古代中国で煮炊きに用いた三本足の青銅器のことで、全国の銅を集めて九鼎を造り、王室の宝とされた。
このことから、帝王の位や権威の象徴とされるようになった。kotowaza-allguide.com/ka/kanaenokeityou.html
多く、「鼎の軽重を問われる」という形で使われる。


古代中国で、飲食物を煮るのに用いた金属製の容器。https://kotobank.jp/word/鼎-45704
二つの耳と三本の足をもつ。古くは土器であり、飲食物を煮るだけに用いたが、のち、祭祀用になった。特に、夏の禹王(うおう)が九か国の銅を集めて九鼎を作ってから、王位、帝位を表わすようになった。祭器としては「かなえ」と呼ぶことが多い。
※新浦島(1895)〈幸田露伴〉一一「鼎(テイ)はそもそもどんなもの火候は摂氏の何度たるべき、外丹は真に磠砂水銀など用ゐて化学臭い真似して作るか」
② 易の六十四卦の一つ。。上卦は離(火)、下卦は巽(風・木)。火風鼎ともいう。初爻(こう)の陰は足の象、二より四までの陽は腹の象、五爻の陰は耳の象、上爻の陽はつるの象で、全卦で鼎(かなえ)の形を示し、革新のさまを表わす。
火風鼎…柔順さを活かすべきとき…φ?
噴出したことで、 淀んで渦巻いていたものが発散されて浄化される。 改善のためにどうすればよいのか、 どうすることが解決につながるのか、 考えるきっかけとなり、清々しく活性していく。
「火風鼎」の卦辞と爻辞の解釈例。易から受け取るメッセージ。 image 器 case.1 道が、大いに通っていくとき。 聡明さや柔順さを活かすべきときであり、 誠意や敬意を捧げるべき対象には、 物心両面で、尽力するとよいでしょう。
中身が詰まり過ぎていて、 持ち上げられないのかもしれない。
叶 解字の画像https://www.bing.com/images/search?q=%e5%8f%b6+%e8%a7%a3%e5%ad%97&id=5966F7528A0F38DCA65EC3D92670CAF5B7C152DD&form=IQFRBA&first=1&scenario=ImageBasicHover
集まる意…
十 ジュウ・ジッ・とお・と  十部https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/817bb281d7eb051be23bcf1228dbf5ed
解字 数字の十をあらわす指示文字。甲骨文はタテの一線で表わし、金文はタテ線に肥点を加えた形。篆文から十字形になった。漢字は十進法を採用しており、甲骨文では一から四まで横線をかさねた形で表している。十は、桁がかわる数字であり、一をタテにして十および十の位を表した。十は部首となるが、また音符ともなる。
意味 (1)とお(十)。数の名。「十指ジッシ」「十階ジッカイ」 (2)満ち足りているさま。「十分ジュウブン」「十全ジュウゼン」 (3)数の多いこと。「十把一絡(じっぱひとから)げ」
参考 部首としての十。十は、数の十や、多い・集まる意で部首となる。しかし、この意の字はすくなく、漢字の一部に十が含まれるものを便宜的に十部に入れているものが多い。常用漢字で11字、約14,600字を収録する『新漢語林』では156字が十部に収録されている。十部の主な字は以下の通り。
十の意味が含まれる字
廿ジュウ(十+音符「十ジュウ」)・卅[丗]ソウ(十+十+十)・協キョウ(十+音符「劦キョウ」)・博ハク(十+音符「?フ」)
便宜的に十部に入っている字。(ほとんど音符)
干カン・午ゴ・卒ソツ・卓タク・升ショウ・半ハン・卑ヒ・南ナン・千セン・卉キ、は最後の卉キを除きすべて音符となる字。ここから分かるように音符になる字は、分解することがむずかしく独立性の高い字である。すなわち、部首となじまない独立性をもち、主に発音をつかさどっている字が音符と言える。
イメージ  「とお」 (十・什・廿・卅・計・汁)
       「十字形」 (辻)

鼎の形?https://ja.wikipedia.org/wiki/サイ_(漢字学)#/media/ファイル:口-oracle.svg
(サイ)とは、白川静が提唱する漢字の構成要素であり、祝詞を収める箱の形をしめす。
口(くち)と解釈するものではなく、「神に捧げる祝詞を収める箱」と解釈することにより、口部を有する漢字の統一的な字義解釈を行うことができるとし、(サイ)を提唱した。これは、古代中国が宗教的社会であったことと漢字の成り立ちが密接に関係していることを主張したものである。https://ja.wikipedia.org/wiki/サイ_(漢字学)

説文解字 - 夕暮れは暗く、姿が見えないので、口で名を告げることから
白川静説 - 子供が生まれた後、祖先に名前の使用許可を求める儀礼を行う際、祭祀用の肉(夕)とともに祝詞を収めた(サイ)を用いることから

説文解字 - 文字の上部は牛の角であり、牛が人に告げるときはその角で人に触れることから
白川静説 - 文字の上部は木の枝であり、祝詞を収めた(サイ)につけて神に告げ、祈ることから

かなえの足のように三方に並ぶさま。https://mnamae.jp/c/g_9f0e.html
三つの足と二つの耳のある器。もと、なべや食器として用いたが、のちには王侯の祭器、礼器となった。 王位のしるし。国に伝わる宝。 かなえの足のように三方に並ぶさま。また、ずっしりと、すわったさま。 あたる。まさに。ちょうど…だ。ぴったりあたる。周易の六十四卦カの一つ。巽下離上ソンカリショウの形で、木の上に火があり、供物を煮て神をまつるさまをあらわす。

地上に配置された複数の三角点を線分で結んで形成される網(三角網)において,各線分間の角(水平角)を測定して三角点の水平位置(経度,緯度)を求める測量。地球上での三角点の位置は,旧来経度,緯度,高さの3量によりあらわされるのが普通である。…
三角網https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B6%B2-70414
呈 テイ <神に差し出す>https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3617
解字 「口サイ+壬テイ(ぬきんでる人)」の会意形声。口サイは、神への祈りの言葉である祝詞を入れる器。これを抜きん出て立つ人が高くかかげて神にささげ、神に内容を示すことをいう。新字体は、壬テイ⇒王に変化する。
意味 (1)さしだす。さしあげる。「贈呈ゾウテイ」「進呈シンテイ」 (2)しめす。あらわす。「呈示テイジ」(差し出してみせる)「露呈ロテイ」(隠れているものが外に表われ出る)
イメージ  原義の 「神に差し出す」 (呈)
       壬テイの意味である 「ぬきんでる」 (程・逞・酲)
       「その他」 (聖)
音の変化  テイ:呈・程・逞・酲  セイ:聖
程 テイ・ほど  禾部
解字 「禾(いね)+呈(ぬきんでる)」 の会意形声。ぬきんでて立つ稲の長さを意味し、長さの単位やみちのりの意。のち、長さの標準となることから、きまり・さだめの意となった。
意味 (1)(稲の長さから)長さの単位。ながさ。みちすじ。みちのり。「里程リテイ」(みちのり。里数)「道程ドウテイ」「行程コウテイ」 (2)標準。きまり。さだめ。「規程キテイ」「教程キョウテイ」「課程カテイ」 (3)ほど。ほどあい。ぐあい。「程度テイド」
逞 テイ・たくましい  之部

 

伊氏…道具を持って奉仕する者…

 投稿者:吾亞風  投稿日:2020年 8月 7日(金)08時12分57秒
返信・引用
  『修験指南鈔』…「棒は道具であり、尹は道具を持って奉仕する者が字源であろう」…「度して通せ」…「φ」
指南…
《指南車が常に一定の方位を指示したところから》武術・芸能などを教え示すこと。指導すること。https://dictionary.goo.ne.jp/word/指南/
『禹貢指南』鋤…
解字 「金(金属)+臿(さす)」の会意形声。田畑にさして耕す金属製のスキ。鍬ショウ・シュウ(すき・くわ)は、鍤ショウの同音代替字である。 意味 (1)すき(鍤)。土を掘り起こす農具の一種。 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs/mobile/index/detail/comm_id/4413/
山頂の禹像  干(二また状の棒)http://www.travelog.jp/user/report/mp_report_photoview.php3?userid=path&seqno=1&listing=1&photo_fn=4.JPG&photo_angle=1&no=4
己 おのれ
 意味;
 《解字》象形。古代人がすき(農具)に使った曲がった木を描いたもの。のち耜(シ) (すき)以(イ) (工具で仕事をする)已(やめる)などの用法に分化した。
解字:象形。柄の付いた耜(すき)の尖った先端の形にかたどる。耜の先端の尖った意。 借りて、方向などの意に用いる。http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-53.html
三つ星が古代から航海の神として重要な位置にありましたが、東の方位にあり天上界の 登り口として宮古島では捉えられていますから、ここから神様や死者 .... 耒 鋤 耜 犂 鍬 臿【唐鋤星】からすきぼし 〔補説〕 唐鋤に見立てていう 二十八宿の参(しん)宿の和名。 ...http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/716
三女神」というのは、航海の守り神であったオリオンの三ツ星から来て いる可能性もあります。 この宗像大社の祭神である市耒姫(いちきひめ)を移したのが 、広島にある厳島神社です。
、「三輪神社」の命名にも、三ツ星が関係しているかもしれません。
鋤を持った禹の像が.
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/662
さんかく座はおおぐま座にも用いられた『鋤』という名称だった。
鋤を持った禹の像が描かれていることが多い。
http://www2g.biglobe.ne.jp/~stakasa/china/zazhuan/zitozi12_xia.html

味鋤高彦根命=賀茂建角身命であることが判明しており、事代主は賀茂建角身命の娘玉依姫の夫である。よって、三系統の賀茂氏は一つにまとまる。http://mb1527.thick.jp/N3-09-10kitakinki.html
味鋤高彦根尊?
味鋤高彦根命誕生 味耜高彦根関連地図 饒速日尊出雲帰還 旧丹波国(丹波・丹後)地域はこの当時丹波王国が存在した。 徐福の一派である豊受大神がこの地に上陸し先端技術を駆使して強大な王国を建設していたのである。先進技術を持っており、強大な王国なので、統一は至難を極めるはず ...http://mb1527.thick.jp/N3-06-1ajisukitakahikone.html

土佐神社では、この神は土佐大神と呼ばれていますが、この土佐大神は味鋤高彦根神であり、また一言主神であって、雄略天皇が葛城山で狩りをした時に、天皇の怒りにふれて、この土佐に流されたのだとされます
高知県下では最大規模の小蓮古墳(こはすこふん)を始めとする多くの古墳が分布する地に鎮座する小野神社がある。当地に来住した小野氏一族がその祖先神を祀ったことに始まるという。
主祭神は、小野氏祖神とする天足彦国押人命
小蓮古墳の出土品として須恵器・金銅製中空玉・金環・鉄刀子・鉄鏃・馬貝・鉇などが発見された。これら石室様式・出土品から、6世紀後半の築造と推定されている。古墳丘、石室の大きさ、副葬品の内容から判断して有力な古代豪族の墳墓。
  谷氏
一宮の神主家で、天文の吉良家老臣に谷将監があり、天正の谷忠兵衛忠澄は一宮の神官で長曽我部元親の老臣であった。谷氏はのち山内家に仕え、一族から儒学・国学の学者を多く出した。江戸前期の儒学者谷素有(時中)・一斎親子や谷秦山(丹三郎重遠)、その子垣守、その子真潮(北渓)などがあげられる。谷秦山の家は、一宮の神主家の庶流で長岡郡八幡村(現南国市岡豊町八幡。一宮の四キロほど東方に位置)の別宮八幡宮の祠官家であり、谷左近を家祖としていた。垣守の曽孫にあたる者が、もと高知藩士で陸軍中将、子爵となった谷干城(通称を守部、号は隈山)である。別宮八幡宮は近隣の岡豊城に拠った長曽我部氏の信仰が厚く、城の鬼門を守る守護神として崇敬された。
土佐神社…
土佐神社の圧倒的な伝統美に隠された十字架
弊殿を頭とし、尾に相当する拝の出を長くした十字形で、本殿に向かってとんぼが飛び込む形にみたてたいわゆる入蜻蛉形式で、凱旋を報告する社という意味があると言われています。
平安時代末期、信濃・秦氏の一族である秦能俊が、土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)の地頭として赴任し、長宗我部能俊(ちょうそかべよしとし)と称したのが、長宗我部家の始まりなのです。
江戸時代の人物、松浦静山は、多胡碑(群馬県)において十字架と、「J N R I」の文字が発見されたことを述べています。
この「JNRI」は、ラテン語のJesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字、すなわち「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を表します。
私がかつて持っていたインテリアグッズとしての十字架にも、イエスの頭の上に「JNRI」と同じ意味の「INRI」という文字が付けられていました。きわめて大切な言葉です。
奈良の正倉院に残る掛布屏風袋の銘文に、
「上野国多胡郡 山部郷戸主秦人」という記述があり、多胡地域に秦氏が居住していたことが分かります。
言うまでもなく、秦氏は古代東方キリスト教徒あるいは景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)だとする見解が広く知られています。
中国では石窟寺院から仏教経典と共に景教聖書が発見され、韓国では景教の十字架が慶州の仏国寺で発見されるなど、キリスト教と仏教の「神仏混淆」が東アジアにありました。
ならば、日本にだけは神社仏閣と原始キリスト教との習合はなかったと考える方に無理があります。

土佐藩の正称は高知藩(こうちはん)。板垣退助などは「高智藩」と称した。この「コーチ」と言う音読みに、常々関心があった。「河内」「ユダヤ人」「日ユ同祖論」との関係を探していたところ、ようやく日本人の真実の姿、土佐人の根源に行き着いたか・・・コーチ(Kochi)土佐・高智とインドのユダヤ都市コーチとの関係

山地を越えて伊予に至る道は、古くから「修験の道」、「木地師の道」、「交易の道」などとして利用されていました。
律令期の当初、土佐への官道は都から阿波~宇和島~幡多と西回りで土佐に入るたいへん遠回りをするものでした。そこで、養老2年(718)に国司からの要請によって、阿波から南下する海岸回りの新道が開かれました。http://www.town.motoyama.kochi.jp/life/dtl.php?hdnKey=628
「修験の道」…
道(タオ)って一体何? 「道」は、中国では「タオ」と読みます。あまり聞きなれない言葉かもしれませんね。「タオって何?」と思う人もいるでしょう。 まずは「道(タオ)」とは一体何なのかについて、見ていきましょう。https://engimono.net/divinefavor/tao/
修験道 2011/02 川村邦光 仏教・密教や神仙思想(→「道教(タオ イズム)」)の影響のもとで、古来から神霊の住む霊山として信仰されてきた山岳で修行し、霊力を修得した宗教者によって形成された宗教。https://imidas.jp/genre/detail/L-102-0037.html
…蔵王権現を出現させたとされる大和葛城山の役小角(えんのおづぬ)は、修験道の開祖とされた。園城寺(おんじょうじ)と聖護院(しょうごいん)を本山とする天台系の本山派と醍醐寺三宝院を本山とする真言系の当山派の二大教団が形成され、金峯山、大峯山、熊野三山を修験道場として諸国から修行者が集まった。地方では富士山をはじめとして、東北の出羽三山(→「即身仏」)、越中の立山、四国の石鎚山、九州の英彦山が盛えた。

儒教用語。中国,上古の聖賢の道は,堯-舜-禹-湯-文・武-周公-孔子と伝えられ,それをさらに曾子・顔回-子思-孟子と継承したが,孟子以後は仏教や道教の出現でとだえていたものを,宋代に周子があらためて受継ぎ,二程子・張子-朱子へと伝わって,朱子がその道を大成した,という考え方。したがって,その先王の道を継承する朱子学が儒学の正統であると主張する。この考え方の萌芽は,唐代の韓愈にすでにみえるが,ドグマであって史実ではない。しかし,その道を正統として宋学が確立されると,それ以外の仏教などは異端となり,仏教などの研究は軽視されることになった。そのようなゆがみは,現在でも中国思想史全体の見方に色濃く残っている。
道統https://kotobank.jp/word/道統-103952
禹歩の法(うほのほう)は中国の夏の始祖の聖王・禹(う)が伝えたとされる呪術的な歩行方法です。 道教に起源を持つ「 魔除けと清め 」を中心とした神事であり、日本では陰陽道や修験道の方術の一種とされてきました

動画は「高知いきいきテレビ」さんがアップしたもので、物部村で行われるいざなぎ流の公開儀式「日月祭(にちげつさい)」の様子です。
平安中期に賀茂保憲が息子の賀茂光栄に天文と歴道を、安倍晴明に天文を教えたことで安倍と賀茂の2大宗家が誕生するhttps://moryo3mai.com/onmyoudou/
…天皇が代替わりする時に行われる「大嘗祭」のなかで、陰陽師が禹歩の法をして斎行の無事を祈っていた

修験五書・十巻鈔
・修験三十三通記  二巻
・修験修要秘決集  三巻
・修験頓覚速証集  二巻
・修験指南鈔         一巻
・役君形成記         二巻
他にも秘奥鈔だの心鑑書だの山ほどあり、本山派や当山派、諸山派それぞれに重きをおく教義書がある。
この修験五書に対して修験道を研究してる学者は切紙の集成だから体系立った教義書の体をなしてないとかなんとか言いますが、講伝(講義と伝授)を受けて初めて体系立った教義書になるんです。
学者はあくまでも学者であって行者じゃないからそう言うところが分からない。
何でも文献だけで判断する限界と言えよう。https://ameblo.jp/yamabushitaiken/entry-12314955838.html

役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。
姓は君。 mackenmov.sunnyday.jp/macken/travel_japan/shikoku/88temples/histry88/ennootuno/ennootuno.html
修験道の開祖とされている。
実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。
天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に役行者を開祖としていたり修行の地としたという伝承がある。
【生涯】
舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。
17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。
その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、
吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
兵庫県西宮市甲山、六甲山系目神山で弁財天を感得したことと関連して、
役行者は奈良の天河の洞川(どろかわ)に住む近縁者、四鬼氏に命じて、唐櫃に移住させ、吉祥院多聞寺奥の院とされる心経岩、六甲比命神社、雲が岩一帯を守護させた。
(以後、四鬼氏は六甲修験の総元締めとして、六甲山西部を管理していた。)
20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。
文武天皇3年(699年)人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。
人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。
2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。
中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。金峰山、熊野山の縁起を合わせて作られた『両峰問答秘鈔』、『修験指南鈔』などがあり、『続日本紀』の記述とは桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっている。
姓は君…尹…
「尹イン」<手に指揮棒をもつ>と「君クン」「郡グン」「群グン」
解字 甲骨文字は手に棒状のものをもった形で、殷代には王の臣下の汎称だという。[甲骨文字辞典]は、「棒は道具であり、尹は道具を持って奉仕する者が字源であろう」とする。私は、尹の系列字の展開を考えるとき、この棒は現場で指揮をとる人がもつ指揮棒ではないかと思う。のち、この指揮棒をもつ人は、長官の意味となり、おさめる・ただすなどの意味も持つようになった。
意味 (1)おさめる。ただす。 (2)おさ。長官。「令尹レイイン」(周代の楚国で最高位の大臣。また、地方長官) (3)姓のひとつ。 (4)[国]かみ(尹)。古代の四等官。
イメージ
 「指揮棒をもつ」(尹・伊)
指揮棒をもつ…湯王…湯殿…殿様?
伊 イ・これ・かれ  イ部
解字 「イ(人)+尹(指揮棒をもつ)」の会意形声。指揮棒をもつ人。殷の湯王を助けて世を治めた伝説上の賢人である「伊尹イイン」に使われるが、一般には、姓や地名に用いられる。また、仮借カシャ(当て字)されて、「これ」「かれ」などの意となる。
意味 (1)これ。この。 (2)かれ。かの。 (3)地名・姓に用いられる。「伊豆イズ」「伊藤イトウ」「伊太利イタリア」「伊国イコク」(イタリア)(4)[国]「伊達だて」(いきであること)
参考 伊イの左辺イが、カタカナの「イ」となった
 君 クン  <まとめる>
君 クン・きみ  口部
解字 「口(言葉を発する)+尹イン(指揮棒をもつ)」の会意。指揮棒をもち言葉を発して号令をかける統治者をいう。古くは地域の統治者を言ったが、のちに人々を治める君主の意味になった。
意味 (1)きみ(君)。人の上に立って支配する者。「君主クンシュ」 (2)きみ(君)。大名や諸侯。地方の統治者。「君侯クンコウ」(諸侯。高官や身分の高い人)「君子クンシ」(徳の高い立派な人) (3)年長者などに付ける敬称。「父君ちちぎみ」 (4)同輩や目下の者を呼ぶ時に付ける語。「諸君ショクン」
イメージ
 人々を支配し地域を「まとめる」(君・郡・群・裙)

「金の峯と葛木の峯の間に椅を度して通せ」…椅(半端…誤差?)を度(はかる…修正?)して通(つらぬく・計?)?
小文字の「φ」()は、 幾何学で、θについで角度を表す。
【毌:つらぬく】 <實・実> 会意。宀(ベン) と 貫 とを組み合せた形。 宀は、祖先の霊を祭る廟の形。 ... 計 「計」 解字:会意。意符の言(ことば)と、意符の十(かず)とから成る。 言葉で数を調べる、「かぞえる」意。? https://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1561
「φ(ファイ):1」とすれば、黄金 分割とは「φ:1=1:φ-1」となる分け方のことです。 http://www.geocities.jp/yasuko8787/kyoui.htm

役小角と一言主神と高鴨神について 1. 役小角の周辺の年表 『雄略四年紀』 天皇、葛城山に狩りに行き、一言主神とであい、共に狩りを楽しむ。
『日本霊異記』 701 二年後の大宝元年一月に大赦があり、茅原に帰るが、同年六月七日に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。
712~720 記紀編纂。『記・紀』では味鋤高彦根尊は迦毛大御神と称えられている。
椅…奇(はんぱ)…
畸 キ  田部https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/62305c7dd237d7deac6512369c9956c3
解字 「田(区切った土地)+奇(はんぱ)」の会意形声。奇は奇数の意味があり、二で割り切れない数から、半端(はんぱ)の意がある。古代中国の土地制度(井田法)で開墾した土地を分配する際、一定の大きさにならない半端な耕作地のこと。転じて、人とそりが合わないさまの意で用いられる。
意味 (1)井田として区切ることのできない半端な耕作地。(2)単位以下の半端な数。(3)人とそりが合わないさま。孤立したさま。風変わりなさま。「畸人キジン」(=奇人)
解字 奇は篆文からある字だが、奇を音符に持つ字で一番古いのは甲骨文の騎キである。甲骨文の騎キは、馬の背に大の字の人がまたがった形(騎の解字を参照)で、馬に乗る意。篆文から「馬+奇」になった。そこで騎のなかの奇は、馬にまたがる人を表していると考えられる。現代字の奇キは、「大(大の字形の人)+可(曲がる)」 の会意形声。大の字形の人が脚をまげた形で、馬に乗った人の姿を表す。騎キ(馬にのる)の原字。古代において甲骨文字が使われた殷インの人にとって乗馬は遊牧民族の習俗であり、それを見ることは、「めずらしい」ことだった。また、乗馬の兵は機動力があり、「おもいがけない」所から表れ攻撃をする「すぐれた」兵士であった。また、馬に乗るのは単騎であることから、偶数に対する「奇数」の意となる。
意味 (1)めずらしい(奇しい)。ふしぎな。「奇術キジュツ」「奇妙キミョウ」 (2)特にすぐれた。「奇才キサイ」 (3)思いがけない。くしくも(奇しくも)。「奇跡キセキ」「奇遇キグウ」 (4)二で割り切れない数。半端(はんぱ)。「奇数キスウ」

度…はかる
度 ド <敷物を広げて大きさを測る> https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/6c0906d7d6ab33b7913935251930a050
解字 「席の略体+又(手)」の会意。席は敷物を表し、度は手で敷物をひろげること。敷物は一枚の長さ・幅が決まっており、敷物を何枚も敷くことによって、長さや広さが分かるため「はかる」「ものさし」「めもり」の意となる。
意味 Ⅰ.ド・トの発音。 (1)ものさし。めもり。「尺度シャクド」「緯度イド」 (2)ほどあい。ていど。「速度ソクド」「程度テイド」 (3)たび(度)。回数。「毎度マイド」「都度ツド」 (4)きまり。のり。「制度セイド」「法度ハット」 (5)強めて言う接頭語。「度胆どきも」(きもを強調していう。=度肝)「度胆を抜く」(きもをつぶさせる。驚かせる)
 Ⅱ.タクの発音。 (1)はかる。おしはかる。「忖度ソンタク」(他人の心をおしはかる。忖も度も、はかる意)

通…
甬 ヨウ…意味 垣を築き外から見えなくした道。「甬道ヨウドウ」
つらぬく
通 ツウ・ツ・とおる・とおす・かよう  之部https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/a89a354efd973b29fe931517fc836501
解字 「之(ゆく)+甬(つらぬく)」の会意形声。ある場所をつらぬいて行くこと。
意味 (1)とおる(通る)。とおす(通す)。つきぬける。「通過ツウカ」「貫通カンツウ」「通夜ツヤ」 (2)かよう(通う)。行き来する。「通商ツウショウ」「交通コウツウ」 (3)皆に知らせる。「通知ツウチ」「内通ナイツウ」

計 ケイ・はかる・はからう  言部https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/817bb281d7eb051be23bcf1228dbf5ed
解字 「言(いう)+十(とお)」 の会意。一から十までの数字を言いながら、ものを数えること。
意味 (1)かぞえる。量をはかる。「計算ケイサン」「集計シュウケイ」 (2)はかる(計る)。くわだてる。「計画ケイカク」「計略ケイリャク」 (3)数量を計る器具。「時計トケイ」
十 ジュウ・ジッ・とお・と  十部
解字 数字の十をあらわす指示文字。甲骨文はタテの一線で表わし、金文はタテ線に肥点を加えた形。篆文から十字形になった。漢字は十進法を採用しており、甲骨文では一から四まで横線をかさねた形で表している。十は、桁がかわる数字であり、一をタテにして十および十の位を表した。十は部首となるが、また音符ともなる。
意味 (1)とお(十)。数の名。「十指ジッシ」「十階ジッカイ」 (2)満ち足りているさま。「十分ジュウブン」「十全ジュウゼン」 (3)数の多いこと。「十把一絡(じっぱひとから)げ」
参考 部首としての十。十は、数の十や、多い・集まる意で部首となる。しかし、この意の字はすくなく、漢字の一部に十が含まれるものを便宜的に十部に入れているものが多い。常用漢字で11字、約14,600字を収録する『新漢語林』では156字が十部に収録されている。十部の主な字は以下の通り。
十の意味が含まれる字
廿ジュウ(十+音符「十ジュウ」)・卅[丗]ソウ(十+十+十)・協キョウ(十+音符「劦キョウ」)・博ハク(十+音符「?フ」)
便宜的に十部に入っている字。(ほとんど音符)
干カン・午ゴ・卒ソツ・卓タク・升ショウ・半ハン・卑ヒ・南ナン・千セン・卉キ、は最後の卉キを除きすべて音符となる字。ここから分かるように音符になる字は、分解することがむずかしく独立性の高い字である。すなわち、部首となじまない独立性をもち、主に発音をつかさどっている字が音符と言える。
イメージ  「とお」 (十・什・廿・卅・計・汁)
       「十字形」 (辻)
タテ線に肥点を加えた形…「φ」
 

大宝 元年…葛城(かつらぎ)山の神…

 投稿者:吾亞風  投稿日:2020年 8月 7日(金)01時39分43秒
返信・引用
  大宝元年1月28日・・・遣唐使を任命、派遣。遣唐執節史・栗田真人ほか、遣唐少録に山上憶良。 大宝2年・・・大宝律令を施行。諸国に度量器を頒布。https://gengou.jpn.com/ge004-2/
大宝元年・・・大宝律令を撰定し、新令を明法博士に講義させる。地方行政区画も国評制から国郡里制へと改まった。
諸国に度量器を頒布…
大宝1年(701) 大宝律令の制定 <我が国初の度量衡制度の確立> 中国の唐の制度を手本にした度量衡制度発足。https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/life/297072_471672_misc.pdf
度器とはものさし、量器とはます、衡器とははかりの事なのです。http://www.nihondoki.co.jp/about/story.html
度量衡(どりょうこう)は、租税・貨幣・土地制度などの確立のため、計量に用いる長さ(度)・体積(量)・重さ(衡)の基準を定めた制度[1]。https://ja.wikipedia.org/wiki/度量衡
702年(大宝二年):壬寅 大宝律を全国に頒布 度器、量器を初めて全国に頒布 薩摩の隼人征討 粟田真人、山上憶良を遣唐使に派遣 第八次遣唐使が派遣され、執節使粟田真人が則天武后に謁見する。www.el-xiii.com/history/timeline/ad1000/ad701-710.html
山上憶良…
HP暗号「山上憶良 」で伝えたい事柄 乗越えて戴きたい解説の拙さという「バカの壁」 常識の壁を崩壊させる用意 2種類の「バカの壁」に対するむなしい取り組み 暗号から分かる邪馬台国 暗号が古代史(邪馬台国)にどう繋がるかを ...http://angouyamanoue.sakura.ne.jp/0-mokuzi.htm
「伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図」によれば、夏至の日の入りの方向に、日御碕神社と出雲一宮出雲大社があります。
1度程度の誤差を容認すれば、確かにその通りですが、当HPでは、誤差1度未満で東西南北または三角定規の斜辺で表される場合を問題にしているので、対象外になります。

大宝 元年 6月7日 ( 701年 7月16日 )伝)は、 飛鳥時代 の呪術者。 役行者 (えんのぎょうじゃ)、 役優婆塞 (えんのうばそく)といった呼び名でも広く知られている 。https://ja.wikipedia.org/wiki/役小角
…大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。
中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。金峰山、熊野山の縁起を合わせて作られた『両峰問答秘鈔』、『修験指南鈔』などがあり、『続日本紀』の記述とは桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっている。[7]。
…大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になって天に飛び去った。道昭法師が新羅の国で五百の虎の請いを受けて法華経の講義をした時に、虎集の中に一人の人がいて日本語で質問してきた。法師は「誰ですか」と問うと「役の優婆塞」であると答えた。法師は高座から降りて探したがすでに居なかった。一言主は、役の優婆塞の呪法で縛られて今(『日本霊異記』執筆の時点)になっても解けないでいる。
『続日本紀』との大きな違いは役小角を告訴したのが一言主の神となっていることで、この一言主神が後々のいろいろな説話や物語などに登場してくる。また、道昭が新羅の国で役小角に会う話が初めて出てくる。この『日本霊異記』にある説話は『続日本紀』の記録とともに、その後の役行者の伝記や説話の根幹になっている[15]。
一言主の神…狩(測量)を楽しんだ。
《日本書紀》の雄略天皇4年の条にみえる神。大和の葛城(かつらぎ)山の神で,雄略天皇が狩をしたとき,天皇と全く同じ姿をして現れ,ともに狩を楽しんだ。素戔嗚(すさのお)尊の子ともいわれ,葛城山一帯にある出雲系の神の一人。《古事記》では〈悪事も一言,善事も一言〉で実現できる神としている。
葛城山かつらぎさんの神。雄略天皇が葛城山に遊猟(測量)したとき、天皇と全く同じ姿で示現した。吉凶を一言で言い放つ託宣神といわれる。
古代では葛城一言主神(かつらぎのひとことぬしのかみ)や八幡神(はちまんしん)および航海神である住吉大神がそう呼ばれ,中古以降には菅原道真(北野天神)をはじめとする御霊神(ごりようしん)をさすことが多い。後者の場合そのたたりのすさまじさから〈荒人神〉の意も含まれている。…
【役行者】より
…葛城山に住む小角は,鬼神を使役して水をくませ,薪を集めさせるなどし,その命令に従わなければ呪術によって縛るという神通力の持主として知られていたが,弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師の能力をねたみ,小角が妖術を使って世人を惑わしていると朝廷に讒訴(ざんそ)したために,流罪が行われたという。葛城山一帯には,古くから一言主神をまつる勢力が蟠踞(ばんきよ)し,大和朝廷に対して微妙な関係にあったと考えられるが,役小角はその葛城山に住む呪術師であり,韓国連広足はその名から考えて,外来の呪術を伝える者であったと想像される。《続日本紀》編纂当時,役小角の名は世間に知られていたようであるが,少しおくれて平安時代前期に書かれた《日本霊異記》には,まとまりのある役小角の説話が収められている。…
 

山の神 海の神としても有名…

 投稿者:吾亞風  投稿日:2020年 8月 7日(金)01時06分4秒
返信・引用
  「甲府にて雪斎宗寿所望ありしに、雲霧に月の山こす風もがな」『東国陣道之記』)と詠んだのはここ…」
酒折山の遺跡、石造物、歴史https://sakaori.vlg.jp/historic/sakaoriyama/contents_02.html
…、山崎石材工業所の採石場には昭和9年銘の大山祇命碑・祠がある。「山崎石」として灯篭・墓石の石材を切り出し、また国鉄線路砕石としても使用され、現在も稼働中である。酒折山の遺跡としては、『甲府市史』(甲府市史編纂委員会1989)と『甲府市遺跡地図』(甲府市教育委員会1992)によれば次の遺跡6件である。
不老園塚古墳 酒折3丁目4 山腹 古墳時代 横穴式石室 長さ5.7幅1.4高さ0.8m
板垣山の烽火台 酒折町 山林 中世 烽火台
酒折縄文遺跡 酒折3丁目1 畑地 縄文時代 散布地
酒折遺跡 酒折3丁目10 浄正院周辺 近世 散布地
村内石山遺跡 横根町1143 畑地 近世 散布地
横根積石塚古墳群 横根町 山林 古墳時代 古墳
このうち、横根町の村内石山遺跡は山崎石材採石場の東側板垣山の山裾であり、近世の遺物散布地である。また八人山東腹の標高460mから330mにかけては横根積石塚古墳群横根支群の39、46、89、90、91、92、93、94、95、96、97、98、99、100、101、102、103、104号墳の18基の古墳が分布する。直径5~11mの安山岩礫で墳丘が築造された円墳で、内部主体の判明する古墳は横穴式石室であり、古墳時代後期の古墳である。山梨学院大学考古学研究会も参加した1985年に考古学調査が行われた横根支群39号墳は、6世紀後半で、石室内の副葬品に鉄鏃、刀子、ガラス玉、木曽馬系の馬の上顎歯が出土したことから(山梨県考古学協会1991)、武人の家長層の墓で、被葬者は牧や馬飼いに関わる渡来系集団である可能性が高いと私は考える。1983年春の山梨県考古学協会・古代の山梨を知る会の古墳群分布調査は、故中込茂樹氏・宮川昌蔵氏らとともに私も参加して、八人山東斜面の雑木林や果樹園に残る人工的な墳丘を探す綿密な調査を行ったので、八人山山頂や尾根筋には積石塚古墳はないと思われる。横根桜井積石塚古墳群は142基基の積石塚古墳が群集する点で、長野市大室古墳群に次ぐ日本第2の積石塚古墳群であり、歴史的に重要である。古墳群の一部は甲府市指定史跡になっていて、各古墳には古墳名標識が設けられてあるが、古墳の見学路やビジターセンターなどは未設定で今後の課題となっている。不老園塚古墳は、酒折3丁目4の奥村不老園の北部の月見山腹標高315mにあり、墳丘の土はほとんど失われているが、安山岩の板石で組まれた無袖式横穴式石室が鉄柵で囲まれ、酒折古墳の説明標識が設けられて保存されている。未調査であるが古墳時代後期6~7世紀の小規模円墳の横穴式石室と考えられる。
大山祇命…大山咋神?
オオヤマヅミ神は日本の山の神の総元締としてしられる神さまです。民俗信仰の山の神はその山の周辺に暮らす人々の祖霊であり、農業を生業としていれば田の神のような穀霊、山の民にとっては木地や炭焼、鉱山や鍛冶の神さまであるよう
山の神の総元締https://日本の神社.asia/shinto4/shrine28.html
海の神としても有名
オオヤマヅミ神は別名「ワタシ大神」といって海の神の性格も持ちます。ワタはワタツミ神(海神)のワタ(うみ)のこと、シは司(つかさどる)ことを意味していることから、海を支配する神ともいわれます。
オオヤマヅミ神を祀る神社の本拠地である愛媛県大三島は瀬戸内海は芸予諸島の中心で、その近くの芸予海峡は古くから西日本と近畿を結ぶ水運交通の要でした。そのため海の神としての崇敬が篤く、瀬戸内水軍の守護神として、または武門の守護神として崇敬されました。
酒造りの神
オオヤマヅミ神の娘「コノハナサクヤヒメ命」が天孫「ニニギ尊」とと結婚して、「ヒコホホデ命」を生んときにオオヤマヅミ神は大いに喜んで佐奈田の茂穂(よく実った米)お酒(アメノタムケ酒)を作って、神々に振る舞ったそうです。
酒造りの神…
松尾大社 秦氏の神社。http://makoto55.jugem.cc/?eid=1926
主祭神:大山咋神
    中津島姫命
創建年:701年(大宝元年)
嵐山エリアは渡来人「秦氏」が開拓し松尾大社の裏にあります「松尾山」の神を総氏神とした。・・・というのが起源だそうです。
中津島姫命…
御祭神:大山咋神、中津島姫命 続日本紀によると、大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させたそうです
神話ではスサノオと神大市比売(かむおおいちひめ)との間にできた大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子と言われています。大山咋神に関して、丹波国(京都府)の浮田明神にまつわる古い伝承があります。それによれば、太古の昔、丹波の国は湖水であったが、大山咋神がその湖水を切り拓いたので、水が干上がって国土となりました。人々はこれを感謝して祠を建てて祀ったという。この話から連想すれば、大山咋神は治水、開発の神であったことがうかがえます。実際にその御神体は鍬であるというから、農耕信仰の守護神として崇められ、この伝承と秦氏の治水、土木技術から考えれば、当然葛野の里を作った神様を祭るのはごく自然のことと思います。https://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11005585648.html
…祭神中津島姫命は、市杵島姫命とされているが異説もあります。市杵島姫命と言えば宗像三女神の次女で海上守護神であり、厳島神社の祭神でも有名です。そういえば宇佐神宮にもお祀りされていますね。しかも宇佐神宮のおひざ元、中津は秦氏の一大拠点で、古の隋書にでてくる秦国があったところとも言われています。
…つまり、古の渡来人秦氏は、おそらく天孫系の物部氏とほぼ同様の時期に渡来、ここ、京都の葛野に根を下ろしました。その時に中国より持ち込んだ道教の神様が天之御中主神だったのです。しかし、そこには磐座を祭祀する土着の原始的な宗教があり、おそらくそれを大山咋神とし、秦氏の神様に挿げ替えたのでした。また神産巣日神は女神とも言われているので宗像の中津島姫命(市杵島姫命)が相当すると思われます。ここで考えてほしいのは、もともと宗像氏は筑紫の海人(あま)族を統べる氏族でした。宗像三女神(沖ノ島沖津宮の田心姫(たぎりひめ)神・大島中津宮の湍津姫(たぎつひめ)神)・辺津(へつ)宮の市杵島姫(いちきしまひめ)神)を祭祀して、朝鮮半島との海路の支配と文化の移入において、新羅と密接な関係を持っていました。当初秦氏は辰韓から日本列島に渡来した渡来人だと記述しましたが、当然彼らは海の神様を祭ることは不思議ではありません。また月読尊が高御産巣日神というのは、日本書紀巻第十五の顕宗天皇(けんぞうてんのう)の三年春二月一日の記述で、、高皇産霊をわが祖と称する月の神が人に憑いて、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録があるのです。つまり、秦氏の氏神自体はもともとは壱岐の流れもあるということなのです。
…記紀でいう造化の三神とは、つまり渡来系の神様であり、中国よりもたらされた天之御中主神、朝鮮系で壱岐よりもたらされた高御産巣日神、朝鮮系で対馬よりもたらされた神産巣日神が渡来系の氏族の根源的な神様となったのです。そして大和を平定した皇祖神、ニギハヤヒを天照御魂とし、中心的な神様として祀ったのが律令体制以前の渡来系古神道だと思っています。
そしてもう一つ重要なヒントが神話の中に隠されているのです。それは八咫烏のエピソードです。八咫烏は神武東征の際、月読尊の高御産巣日神によって神武天皇のもとに使わされ熊野から大和へ道案内をした三本足の烏です。この三本足の烏は何を意味しているのでしょう?あ、そうか!!あの木島神社の三本鳥居は八咫烏止まれるようにもなっているんだ。そういえば八咫烏は八田烏、つまり秦烏ともつながり、神功皇后などは葛城の秦氏の出身とされており、賀茂一族との関わりも深く、「皇室を操る外戚の存在を隠蔽する目的で八咫の字が当てられるようになった」という伝承も秦氏の社家に伝わっています。
…『三国史記』によれば、高句麗国を建国した東明聖王(日の出の太陽神)は卵から生まれたとされ、オイ、マリ、ヒョッポの3人の家臣を連れていた、その伝承をもとに高句麗では三本足の烏が神聖視されていました。それが鴨氏や賀茂氏、また秦氏の伝承となって記紀に記されるようになったという説もあります。(谷川健一、日本の神々より)

御祭神:大山咋神、中津島姫命 続日本紀によると、大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させたそうですhttps://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11005585648.html
…渡来人秦氏は、おそらく天孫系の物部氏とほぼ同様の時期に渡来、ここ、京都の葛野に根を下ろしました。その時に中国より持ち込んだ道教の神様が天之御中主神だったのです。しかし、そこには磐座を祭祀する土着の原始的な宗教があり、おそらくそれを大山咋神とし、秦氏の神様に挿げ替えたのでした。また神産巣日神は女神とも言われているので宗像の中津島姫命(市杵島姫命)が相当すると思われます。ここで考えてほしいのは、もともと宗像氏は筑紫の海人(あま)族を統べる氏族でした。宗像三女神(沖ノ島沖津宮の田心姫(たぎりひめ)神・大島中津宮の湍津姫(たぎつひめ)神)・辺津(へつ)宮の市杵島姫(いちきしまひめ)神)を祭祀して、朝鮮半島との海路の支配と文化の移入において、新羅と密接な関係を持っていました。当初秦氏は辰韓から日本列島に渡来した渡来人だと記述しましたが、当然彼らは海の神様を祭ることは不思議ではありません。また月読尊が高御産巣日神というのは、日本書紀巻第十五の顕宗天皇(けんぞうてんのう)の三年春二月一日の記述で、、高皇産霊をわが祖と称する月の神が人に憑いて、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録があるのです。つまり、秦氏の氏神自体はもともとは壱岐の流れもあるということなのです。
…八咫烏は神武東征の際、月読尊の高御産巣日神によって神武天皇のもとに使わされ熊野から大和へ道案内をした三本足の烏です。この三本足の烏は何を意味しているのでしょう?あ、そうか!!あの木島神社の三本鳥居は八咫烏止まれるようにもなっているんだ。そういえば八咫烏は八田烏、つまり秦烏ともつながり、神功皇后などは葛城の秦氏の出身とされており、賀茂一族との関わりも深く、「皇室を操る外戚の存在を隠蔽する目的で八咫の字が当てられるようになった」という伝承も秦氏の社家に伝わっています。
…『三国史記』によれば、高句麗国を建国した東明聖王(日の出の太陽神)は卵から生まれたとされ、オイ、マリ、ヒョッポの3人の家臣を連れていた、その伝承をもとに高句麗では三本足の烏が神聖視されていました。それが鴨氏や賀茂氏、また秦氏の伝承となって記紀に記されるようになったという説もあります。(谷川健一、日本の神々より)
…秦氏を中心とした渡来系の民族は一度に来たのではなく、必ず先駆者が定住し、その土地を切り開いてから、後に後続の民が渡来していったのではないかと思います。そこで、時代、時代であがめていた神様も変わったので、おそらく何神もの神様が複雑に祀られているのと、律令国家により天照大御神(女神、アマテラス)の神を信奉するような国家形態となり、古き神は封印されるようになっていきました。しかし、記紀を編纂した藤原不比等らも、その勢力までは排除できず、政治からは遠ざける代わりに、何かしらの特権(絹製品の独占や酒造権、芸能など)を与えたのではないかと思います。また平安京に都が遷都されたのちは、さらに経済的な特権、つまり祭り(葵祭、祇園祭、京都三大祭の二大祭り、時代祭は明治に入ってからのお祭り)を仕切るようになり、また祇園などの花街を支え、いわば京都の庶民文化の担い手となっていったのではないかと思います。

中津島姫命は秦氏が朝鮮半島との交易を念頭に海上守護として祀られました。 ※秦氏は渡来人ですが在地神を尊重 手水舎にはコロナ感染症の影響で柄杓がありませんでした。 撫で亀さんも直接触れる事は出来ませんでした。 https://kyoto-secret-spots.com/2020/04/29/post-6750/
 

「 語られぬ湯殿にぬらす袂かな 」…月山に東西2所の補陀落が…

 投稿者:吾亞風  投稿日:2020年 8月 6日(木)20時10分41秒
返信・引用
  【意味】ここ湯殿山で修行する人は山でのことを一切口外してはいけないというならわしがあるが、そういう荘厳な湯殿山に登って、ありがたさに涙を流したことよ。 https://hosomichi.roudokus.com/Entry/86/
袂…「ゆがけ」…弓…
羽黒山の祭神である「伊弖波神」…弖…

「夬ケツ・カイ」 <えぐりとる> と 「決ケツ」 「快カイ」
 最初は弓のつるを引く「ゆがけ」https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/45d4b31c18c2a7b7a0d4a643f72c95bd
解字 甲骨文字は三本指の手の先に〇を描き、指輪状のものをはめていることを表している。春秋戦国期の簡帛は、手のひとつの指に〇をはめている形を表す。これは弓を射るとき弦をひっぱるための「ゆがけ」と考えられている。「ゆがけ」は角や玉製の短円筒で、これを右手の親指にはめて、円筒の端に弓弦をひっかけ人差し指で押さえながら弓を引く(現在の「ゆがけ」は手袋の中に仕込まれている)。
 篆文になると、第1字は指の先に中の字が付いた形になり、第2字の[説文解字]で、コの形にタテ線になった。説文著者の許慎は夬を「分決するなり」として、切り分ける意に解釈した。これは篆文のコ形を刀と解釈し、これを手に持つ形としたためである。許慎にいたり夬の字は、字形と意味に大幅な変更がともなった。これ以降の夬は、刃物を手に持って物に切りこみを入れる意味が主流となり、音符として「えぐり取る」等のイメージで用いられる。(字形の変遷は中国の「字源」を参考にした)
意味 (1)ゆがけ(夬)。弓の弦を引く道具。 (2)わける。 (3)きめる(=決)
イメージ
 「えぐり取る」(抉・刔・決・快)
 「切り込みを入れる」(袂・玦・欠)
 「切って分ける」(訣)…
靭…
上古時代に矢を入れて携行した武具の一種。靭とも書く。古墳時代前期後半の会津大塚山古墳からは,長さ 80cm以上の縦長の箱形のものが発見されているが,古墳時代後期には,武人埴輪や装飾古墳の壁画などにみられる奴凧形の靫が使用された。靫は背中に背負って携行し,平安時代までは「ゆき」と発音した。伊勢神宮の御神宝中に姫靫,蒲 (かば) 靫がある。 https://kotobank.jp/word/靫-144996
うつぼ(空穂)
※時秋物語(鎌倉初か)「うつをより文書をとり出でて、時秋に見せけり」

出羽三山の伝承では、第32代崇峻天皇(泊瀬部大王)の子「蜂子皇子」が、八咫烏に導かれて羽黒山に登拝し、羽黒権現を知覚した後、月山と湯殿山においてもそれぞれ月山権現と湯殿権現を知覚し、霊山三山の開祖となったと伝えられています。https://omouhana.com/2018/07/06/湯殿山/
熊野…八咫烏…
熊野補陀落寺の代々の住職には、61歳の11月に観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった。https://piicats.net/hudaraku.htm
 日本では、栃木県の二荒山が古くから補陀落山と同定されていた 他、山形県の月山に東西2所の補陀落が見出されている。 また、和歌山県の那智には、補陀落へ行く為に沖合へ漕ぎ出し、海中に身を委ねる「補陀落渡海」と云う奇習もあった。

わける。…空つぼ
虚舟(うつろぶね)は、日本各地の民俗伝承に登場する架空の舟である。他に「空穂舟(うつぼぶね)」「うつぼ舟」とも呼ばれる。https://ja.wikipedia.org/wiki/虚舟

事情を知り、姫の行く末を案じた王は桑で作った靭(うつぼ)船に姫を乗せ、海に流した。 この船は 常陸国 の豊浦湊に漂着した。https://ja.wikipedia.org/wiki/蚕影神社

蚕影山…
「湯殿山・月山・羽黒山」の石碑が鎮座している。 日立市 奥撫の湧水群 おくなでのゆうすいぐん 日立市 十王町高原 ... 蚕影神社の上り口にある春喜屋の敷地内に「蚕影山自然湧水」「蚕影山湧水の滝」という2つの湧水があります。 ...https://www.env.go.jp/water/yusui/result/sub4-2/PRE08-4-2.html
十王町高原…
蚕影山の石祠が置かれている。
北緯36度29分10秒, 東経139度20分15秒
蚕影山(こかげやま)
蚕影神社(こかげじんじゃ)は、茨城県つくば市神郡にある神社。正式表記(旧字体)は蠶影神社。通称は蚕影山(こかげさん)神社[1]。全国にある蚕影神社の総本社。古名は蚕影山桑林寺、蚕影明神など。近代社格制度に基づく旧社格は村社。
主祭神
和久産巣日神
埴山姫命
木花開耶媛命
配祀神
筑波男神、筑波女神、素盞鳴命、月読命、蛭子命、天照大神、生馬命
金色姫伝説 https://ja.wikipedia.org/wiki/蚕影神社
天竺に舞台が及ぶ壮大な伝説で、「日本一社蚕影神社御神徳記」のほか、上垣守国が享和2年(1802年)に著した「養蚕秘録」、伊藤智夫の「絹1 ものと人間の文化史」等の養蚕書に紹介がある。
概略
欽明天皇御代(539-571年)、北天竺の旧仲国の霖夷大王と光契夫人の間に金色皇后(金色姫)という娘がいた。夫人は病で亡くなり、王は後妻となる后を迎えたが、后は金色姫を疎み、王の目を盗んで、姫暗殺の奸計を巡らせた。
第一に、獅子王という獣が巣食う師子吼山に捨てさせたが、獅子王は金色姫を襲うことなく丁重に宮殿に送り届けた。第二に、鷲、鷹、熊などが巣食う辺境の鷹群山に捨てさせたが、鷹狩のために派遣された宮殿関係者が発見した。第三に、海眼山という不毛の孤島に流させたが、漂着した漁師に保護された。第四に、清涼殿の小庭に埋めさせたが、約100日も経った頃、地中から光が差したので、王が掘らせたところ、金色姫がやつれた姿で救い出された。事情を知り、姫の行く末を案じた王は桑で作った靭(うつぼ)船に姫を乗せ、海に流した。この船は常陸国の豊浦湊に漂着した。
豊浦湊に住む漁師、権太夫夫婦が金色姫を救い面倒を見たが、姫は空しく病に倒れた。ある夜、夫婦の夢枕に姫が立ったので、唐櫃を開いたところ、亡骸はなく無数の虫が動いていた。金色姫が靭船で流れてきたことから、桑の葉を与えたところ、虫は喜んで食べ、次第に成長した。ある時、虫は桑を食べず、頭を上げてわなわなと震え出した[8]。夫婦が心配していると姫が再び夢枕に立ち、この休みは継母から受けた受難の表れだと告げた。「獅子の休、鷹の休、船の休、庭の休を経て、靭船の中で繭を作ることを覚えた」という。姫が告げた通り、虫はしばらくして繭を作った。
夫婦は筑波山の「影道(ほんどう)仙人」(蚕影道仙人とも)に繭から綿糸を紡ぐ技術を教わった。さらに筑波に飛来された欽明天皇の皇女各谷姫に神衣を織る技術を教わった。これが日本における養蚕と機織の始まりという。
養蚕と機織を営んだ夫婦は、靭船が辿り着いた豊浦に御殿を建立、金色姫を中心に、左右に富士と筑波の神を祀った。
この金色姫が、同県大洗町に伝わる「虚船」伝説の中で船に乗っていた異国の女性のモデルになったのではないか、という説もある。
 

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