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住よし

 投稿者:山田  投稿日:2019年 3月25日(月)14時44分43秒
返信・引用
  ・・
(青梅)住吉神社は、応安2年(1369)延命寺の開山季竜が同寺創建にあたり、寺背にあたる当地に、故郷摂津国住吉大社の神を勧請したといいます。

祭神 上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后

・・
青梅村の総鎮守。四月二十三日大祭。
この山は稲荷山といいます。

住吉三神 ・・イザナキ、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出た。

・・
カラスキとはオリオンの三ツ星の和名です。
 
 

摩多

 投稿者:かぐやまの花こ  投稿日:2019年 3月24日(日)21時45分3秒
返信・引用 編集済
  ・・
梵語の母韻をいうか。
多摩川の多摩は丹波から来てる。

しぐれ桜のある青梅の真淨寺は杣保と呼ばれる。

「われたつそま」
えらい僧侶が「われ」というのがおもしろいんです。

・・
旅人の我も数なり花ざかり  
 

阿耨多羅三藐三菩提…摩多羅神

 投稿者:吾亞風  投稿日:2019年 3月24日(日)16時30分27秒
返信・引用
  母藤原藤子
伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開いた後に、両親に対する恩に報いるために生源寺を建立したと言われます。本尊は、慈覚大師円仁作と伝える十一面観音菩薩像で、伝教大師の父三津首百枝と母藤原藤子の尊像も祀られています。https://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/45500270.html

滋賀県大津市 生源寺  芭蕉
芭蕉のゆかりの地である滋賀県には、大津市を中心として県下全域に渡って多くの「芭蕉句碑」が建てられています。http://www.home-nagahama.jp/rekishi/basho/kuhi/oumi-kuhi.htm
その数は、100基近くあります。

みょうが【冥加】とは。意味や解説、類語。1 気がつかないうちに授かっている神仏の加護・恩恵。また、思いがけない幸せ。冥助 (みょうじょ) 。冥利 (みょうり) 。「冥加を願う」「命冥加」2 神仏の加護・恩恵に対するお礼https://dictionary.goo.ne.jp/jn/213864/meaning/m0u/
神仏の利益 (りやく) にあずかろうとして、また、あずかったお礼として、社寺に奉納する金銭。冥加銭。 2 江戸時代の雑税の一。商工業者などが営業免許や利権を得た代償として、利益の一部を幕府または領主に納めたもの。https://dictionary.goo.ne.jp/jn/213870/meaning/m0u/
冥加(みょうが)とは、江戸時代に山野河海などを利用したり、営業などの免許の代償として幕府や藩に対して支払ったりした租税の一種。金銭で支払われることが多かったために、冥加金(みょうがきん)冥加永(みょうがえい、「永」=永楽通宝)とも呼ばれている。https://ja.wikipedia.org/wiki/冥加
浅野屋(遠藤家)
遠藤家の名字の由来について 遠江の国(現在の静岡県)に移り住んだ藤原南家の末裔が名乗ったのが始まりで、「遠江の藤原」と呼ばれていたそうです。http://kisetsumimiyori.com/endo/

茗荷紋
摩多羅神との関係https://ja.wikipedia.org/wiki/茗荷紋
摩多羅神(またらじん)のシンボルが茗荷だという説がある。摩多羅神は天台宗の円仁が唐から持ち帰った神で比叡山延暦寺やその末寺で祀られ神社や寺で祀っている所も多い。(伯耆の大山寺、出雲の鰐淵寺、出雲大社、日光東照宮など。)日光東照宮に摩多羅神が祀られたことから祭礼の御輿にはすべて茗荷紋が付いている。日光東照宮で用いられる前は限られた家が使っているだけだったが、これ以降茗荷紋が広まった。
摩多羅神は秦氏の総鎮守の大酒神社(おおさけじんじゃ)(今は太秦の広隆寺)の祭りの神である。秦氏の所縁が深いせいか、藤原氏系統にこの紋が多い。

摩多羅神は中世に天台宗寺院の常行三昧堂に祀られた後戸の神であり、玄旨帰命壇の本尊とされる神格。 表記については摩多利、摩?羅、魔多羅ともされる。https://dic.pixiv.net/a/摩多羅神
狩衣を着て唐風の幞頭(烏帽子)を被り、笑みを浮かべながら左手に持った鼓を打つ姿で描かれ、手前に笹と茗荷を持って舞う二人の童子(右が丁禮多、左が爾子多)、頭上に渦巻く雲の中で輝く北斗七星が配される。
笹と茗荷を持って舞う二人の童子

金春禅竹の曽祖父にあたる26世毘沙王権守(びしゃおうごんのかみ)の童名によった もの。 「金春流」または「金春 ... 飛鳥時代の秦河勝(はたのかわかつ)を遠祖とするが、 金春禅竹のころ流風が確立、桃山時代に全盛を極めた。
敖+魚(キリスト教?) =鰲 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1247
「金春 ... 飛鳥時代の秦河勝(はたのかわかつ)を遠祖とするが、 金春禅竹のころ流風が確立、桃山時代に全盛を極めた。
 

わがたつそま

 投稿者:かぐやまの花こ  投稿日:2019年 3月24日(日)00時16分58秒
返信・引用
  ・・
新古今1920
伝教大師
比叡山中堂建立の時

阿耨多羅三藐三菩提のほとけたちわがたつそまに冥加あらせたまへ

・・
わがたつ杣

この杣は武蔵野の縁にもある。
 

鵠(くぐひ)の話 …言葉を発することができなかった

 投稿者:吾亞風  投稿日:2019年 3月23日(土)18時11分4秒
返信・引用
  ヤマトタケルの父景行天皇の兄にあたる誉津別命(ホムツワケノミコト)は、大人になりひげが胸先に達しても言葉を発することができなかったといいます。
「誰か能くこの鳥を捕えて献らむ」と詔せられ、天湯河板挙(あめのゆかわたな)が、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲国(或いは但馬国)でこれを得たといいます。
 兵庫県豊岡市にある久々比神社(くくひじんじゃ)は、その鵠の棲所の地だったことで地名も久々比と呼ばれ、この地に建てられました。祭神は木の神「久々遅命(くくちのみこと)」です。
また、古事記での記載は少し異なります。同じく引用します。
―天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池、軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越を飛んだ末に捕らえられた。―Wikipedia
  この鵠の飛んで行った場所の繋がりは、何か意味がるように思われます。
「ククリ」は製鉄関連に関連のある言葉では?ということを考えました。しかし、この鵠(クグヒ)も今では「ククリ」に関係があると思っています。つまりクグヒ=ククリ?という事です。具体的にどうして?と言われるとその言葉が似ているという事以外何も言えませんが・・・
 鳥と製鉄も直接は関係無いようですが、色々関係するところもあります。例えば、古語拾遺には、製鉄の神である天目一箇神が「筑紫、伊勢両国の忌部等の祖なり」とあります。忌部氏が奉ずる神が天日鷲神ですから関係が感じられます。実際、東員町の忌部氏に関係すると思われる猪名部神社(いなべ神社)のすぐそばに湯河板挙を神とする鳥取神社があります。
 景行天皇を中心に「ククリ」という言葉だけを考えるとこの天皇に関連が深い事がわかります。まず、景行天皇の子-五十狭城入彦皇子(イサキイリヒコノミコト)の墓は、岡崎市和志山にあります。その少し離れた所に、五十狭城入彦を祭神とする和志取神社(わしとりじんじゃ)があります(少し北に行った安城市に同名の「和志取神社」がありその祭神は、天日鷲神)。そしてその五十狭城入彦を祭神とする尼崎市にある伊佐具神社(いさぐじんじゃ)は、案内板にその存在場所がかつては久々知(くくち)という地名であるということが書かれているのです。参照→ヤマトタケルに関連して その2
景行天皇の兄である誉津別命は、鳥(クグヒ)を追いかけてあちこち移動します。そして彼は美濃(景行天皇が居たとされる-久々利も美濃です)や尾張にも来ています。そして、その子五十狭城入彦は鷲と深い関係がある。またその兄のヤマトタケルは死んで白鳥になった。
鳥と製鉄にどのような関係があるかはわかりませんが興味深いと思いませんか?http://blog.livedoor.jp/t_tera1040/archives/45691505.html
 

梅若山王権現

 投稿者:吾亞風  投稿日:2019年 3月23日(土)18時02分29秒
返信・引用
  梅若丸、五歳の時に父を喪い、七歳になり都の東北にある比叡山延暦寺月林寺に預けられ、彼ほどの稚児はいないと賞賛をうける。 https://www.mokuboji.org/紙芝居で見る梅若伝説/
忠円阿闍梨が墓を建て、妙亀大明神として祀り、一方、梅若丸は山王権現として生まれ変わった。
木母寺は平安時代中期の977年忠円阿闍梨の創建と伝えられ、能「隅田川」の梅若山王権現の舞台であることから梅若寺と古称します。芸道上達の寺としても知られ1000年以上の歴史を誇る由緒正しいお寺です。https://www.mokuboji.org/
つが【栂】
つがい‐どり【番い鳥】https://dictionary.goo.ne.jp/jn/146547/meaning/m0u/つが/
雌雄がいつも一緒の鳥。

わしく調べ明らかにする
番 バン・ハン・ハ・つがい・つがえる  田部https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/55d55b25ca6bbe5b8b1224939b622391
はっきりと
審 シン・つまびらか  宀部
解字 「宀(たてもの)+番(はっきりする)」の会意。物事をくわしく調べ明らかにすること。建物のなかで関係者が集まって行なわれる。

木 満致(もく まんち)は、『百済記』や『日本書紀』に伝わる5世紀頃の百済 官人。 百済将軍の木羅斤資の子で、百済の国政を執ったとされる。https://ja.wikipedia.org/wiki/木満致
木満致に関しては、5世紀後半頃の蘇我満智(そがのまち)と音が通じることからこれらを同一人物と考え、木満致が日本に渡来して蘇我氏を興したとする説が知られる[2][1]。これは、応神天皇25年を干支3運繰り下げると西暦474年となって蓋鹵王21年(475年)にほぼ等しいことから、木満致の日本への召し出しと文周王・木刕満致の「南」への派遣を同一視した説で、蘇我氏の開明性はこのように渡来系氏族であったことにより生じたと説明される[5]。しかし、応神天皇紀は通常干支2運を繰り下げるべきこと、木満致・木刕満致や蘇我満智の所伝年代は開きがあり全てを同一人物と見なせないこと、大姓の「木」を捨てる根拠が希薄であること、秦氏・漢氏が渡来系を称するので当時の情勢として出自を偽ることは不可能と見られること、そもそも文周王は文脈上は新羅に向かったと見られることなどから、否定される向きが強い[4][1][5](詳細は「蘇我氏」も参照)。 https://ja.wikipedia.org/wiki/木満致

忠円阿闍梨
614-669 ... 園城寺阿闍梨
藤原氏(北家)https://reichsarchiv.jp/家系リスト/藤原氏%ef%bc%88北家%ef%bc%89
鳥養(鳥養家系へ)
三宅は屯倉、鳥飼は鳥養部から? http://www.city.settsu.osaka.jp/material/files/group/43/p5-6.pdf
鳥飼は鳥養部に関係?
統一国家が形成される時期、同族集団を氏族と呼び集団の族長的立場の首長が氏上(ウジノカミ)として一般の氏人(ウジビト)や、その私有民である部民・奴婢を支配していく体制が整備さ れていきます。
  部民は、支配者に物資や労役を提供する義務があり、集団ごとに大伴部・中臣部のように豪族名、鳥養部・錦織部のように職能名、三嶋部のように 地名などをつけて呼ばれました。
日本書紀には、「垂仁天皇の王子であるホムツワケノミコトが 30 歳になるまで一言も口をきかなかったが、ある者が鵠(クグイ)を献上し、遊ぶうちに言葉を発し、その快挙をたたえて鳥養部 を設置した。」という記載が見られます。 摂津市以外にも淡路国津名郡・筑後国早良郡などにも鳥飼という地名が見られます。
これらの地域は、古代の鳥養部と関係があるのではないかと 考えられています。
鵠(クグイ)
鵠(くぐい)とは白鳥の古名で白鳥が飛来したからだといわれている。が、白鳥が降り立った沼があったか確証はない [5]。
『新編相模国風土記稿』では久久比奴末と読みが付けられている[6]。
八幡社(事代主命)、三柱社(少彦名命)、稲荷社(保食神)
久久比神社は延喜神名式に記される但馬国城崎郡二十一座のうちの小社で、もと 胸形(宗像)大明神と称され、木の神 久久能智命を奉祀した式内社であるが、神 社の創立年代は詳らかではない。一説には多紀理比売命・天湯河板拳命を祀ると言 われる。末社には八幡社(事代主命)、三柱社(少彦名命)、稲荷社(保食神)の 三社がある。http://www.komainu.org/hyougo/toyookasi/kukuhi/kukuhi.html
但馬国城崎郡二十一座
波多野氏(はたのし)は丹波の戦国大名です。 波多野氏と秦氏が関係あるかどうかは分かりません。しかし、出身地が秦氏の中心地太秦(うずまさ)に近い丹波であること、但馬に深い日下部氏を祖としている説があることで、気になるところです。
3.秦氏(はたうじ)http://kojiyamanet.hateblo.jp/entry/%3Fp%3D119072
 

御巡見使…諸国巡見使派遣令 ?

 投稿者:吾亞風  投稿日:2019年 3月23日(土)17時00分22秒
返信・引用
  日吉(ひえ)社とか山王権現ともよばれる。比叡山の東の尾根にある牛尾山(小比叡峰または八王子山)の大山咋(おおやまくい)神(別名を山末之大主(やますえのおおぬし)神)が最初にまつられた地主神で,のち668年(天智7)に三輪の大己貴(おおなむち)神を比叡の山口に勧請して大比叡神とし,大宮とよばれて西本宮にまつられ,大山咋神は小比叡神とされて東本宮にまつられた。…https://kotobank.jp/word/山王権現-71291
芭蕉像と弟子の曽良の像 日枝神社 慈覚大師が立石寺一山の守護神として 比叡山延暦寺から山王権現を勧請して祭った。
奥の細道:松尾芭蕉も訪ねた山寺(立石寺)http://k2project.web5.jp/kesiki/tohokunotabi0709/yamadera/yamadera.htm
立石寺に神楽を伝えたのは四天王寺の秦氏だったと知りました。 東北には古い形態を留めた芸能が残っていると言われます。https://blogs.yahoo.co.jp/cosmoscav16/12403011.html
延隆寺は立石藩主木下延由公が、母 恵照院(お賀井の方)願いで身延山 久遠寺に登詣し、身延山直末として1654年(承応3年)徳川四代 家綱の時代に建立されたお寺です。https://www.enryuji.net/
天保9年(1838) 幕府の御巡見使が来国の時に領主の命令によって建築されました。
天保年間に芭蕉の地元の門下生、小林玉蓬によって建てられたという石の句碑です。https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g325581-d8149643-Reviews-Basho_Monument-Karuizawa_machi_Kitasaku_gun_Nagano_Prefecture_Koshinetsu_Chubu.html
「馬をさへ なかむる雪の あした哉」http://kazeno.info/karuizawa/4-kyuu/4-kyuu-1-12.htm

馬の肉はさくら…「偽客」眺むる…パッと派手に景気よくやってパッと消える
なかむる…きざし 連体形
雪せつ「せっとうじ」https://yaoyolog.com/「おおせつかる」とはどういう意味%ef%bc%9f%ef%bc%88仰せ付か/
哉 :軍事を始める時の儀礼を意味したと思われる。それで?は、ことを始める意となる「字統」。https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/a3b5e2eeb64b5c355995fb32d72ffaa7
 

梅若塚

 投稿者:山田  投稿日:2019年 3月22日(金)18時48分18秒
返信・引用
  ・・
 梅若丸は、吉田少将惟房卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時、比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。
 旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元年(976年)3月15日なり。

尋ね来て 問はば応えよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと

・・
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまこの地に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標となす。

この塚のそばに念仏堂ができ、梅若寺となった。

・・
慶長12年(1607)前関白近衛信尹が参拝。木母寺と改名。

木+母→(梅)


木母寺の秋寂しくもたたき鉦   月
 松ふく風の肌をこそぐる    子
 

鉢…僧侶 「抹殺マッサツ」

 投稿者:吾亞風  投稿日:2019年 3月22日(金)14時47分35秒
返信・引用
  梵語でpatra(ハッタラ=仏寺で使う食器)の音訳語のハッを表す語として使われた。また、盋に代わり鉢も、patra(鉢多羅ハッタラ)として用いられ、この語が主流になったので、鉢の字で僧侶の食器を表した。
末 マツ <木の最も遠い部分>https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/83c4314747dd7e23f04067d5239bdd08

竹中氏陣屋は、関ヶ原の北東4kmほどに位置する江戸時代の旗本 竹中氏の陣屋跡。初代藩主 竹中重門は竹中半兵衛(重治)の息子で、半兵衛の頃は山上の菩提山城が居城だったが、重門が時代の流れに沿って山麓に平城を建造した。https://www.bing.com/search?q=%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E8%B7%A1++%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3&qs=n&form=QBRE&sp=-1&pq=%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E8%B7%A1+%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3&sc=0-10&sk=&cvid=6569E2D19DA741558A3FE53C161262A3
竹中氏菩提寺の禅幢寺
菩提寺のお堂や芭蕉の句碑のある 白山神社から登りました。https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1402136.html
秀吉に仕える 重門は、父親半兵衛の従弟にあたる竹中重利(しげとし)の後見を受けて、父親半兵衛と同様に羽柴秀吉に仕えました。https://colorfl.net/takenakahanbeeshison/#i-6
 

井手、山城

 投稿者:山田  投稿日:2019年 3月22日(金)12時43分11秒
返信・引用
  山城へ井出の駕籠借る時雨哉   翁
元禄2年12月。井出(京都綴喜郡井手町)。

・・
11 22 元禄2 46 土芳の蓑虫庵で伊賀門人九吟五十韻俳諧
11 27 元禄2 46 路通同道して奈良春日大社若宮の御祭見物
12 24 元禄2 46 京都の去来亭で夜更けて鉢叩きを聞く

・・この芭蕉句は凡作ですね。大和から山城に入るに「山吹」とか「蛙」に無頓着であったのはよくわかる。京の去来亭は山城でしょう。「鉢叩き」はいまほとんどみない。これを聞きたかったらしい。

山城の松からも透く初日哉
 大和は鶏の聲もうらゝか

井月の回国の旅は、山城→大和と翁の逆になる。

・・
 

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